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行政の責任として、すべての子どもに家庭的環境を―泉房穂 明石市長に聞く(中編) (2017/8/8 政治山)

(前編からつづく)

全小学校区に子ども食堂をつくり、地域の拠点とする

 子どもへの早期支援の拠点として、明石市はこども食堂を全小学校区に作ります。こども食堂は市内で一カ所ではダメです。子どもが一人で電車に乗って通えません。子どもが自分の足で通える所に、安心できる居場所が要ります。ですから、明石市内の28ある小学校区すべてに、こども食堂的居場所を作ります。

 そのことによって、地域の子どもを地域のみんなが気にして、「ご飯食べに来ないか?」とか、一人ぼっちの子どもがいたら「あそこに行こうか?」とか誘っていく。そうした地域の拠点を作り、気づきの拠点にするのです。ポイントは食べ物ではありません。地域のみんなで子どもに関心を持ち、子どもが自らSOSを発しなければ、「あの子は毎日同じTシャツを着ている」「あの子は何となくやせ細ってきた」、そういった情報を地域で把握し、早期に行政につないでいただく。そのためのこども食堂なのです。こうしこども食堂をすべての小学校区に作ります。

 そして、このこども食堂的な気づきの拠点で把握した状況で、必要があれば毅然と早期に一時保護をします。例えば、お菓子ばっかり食べていてお腹はポッコリ出ているけど栄養は行き渡っていない。こういった子どもについて、「何が悪い」と開き直って、ほとんど家を留守にして恋人の所に通い詰めているというお母ちゃんがいたとします。こうしたケースの時に、明石市が毅然と対応して一時保護したとしましょう。そうした場合、「これ幸い」とお母ちゃんがいなくなってしまうこともあります。

泉房穂 明石市長

泉房穂 明石市長

子どもたちへの責任を最後まで果たしていく

 そうすると、行政が早期に関わって子どもを保護した結果、お母ちゃんとも完全に離れてしまうわけですね。この時に明石市が一時保護した後に、山奥の児童施設に入所させてしまったら、本当にそれが子どもの幸せですかと。お菓子ばっかりで栄養不足、愛情不足かもしれないけど、そうはいっても親子の会話はあったかもしれませんし、お母ちゃんの優しい面を知ってはいたと思います。そういった状況にあえて行政が踏み入って、親子関係の断絶につながるような行為をするということは、その分責任が伴います。

 明石市が早期に一時保護するということは、その後の責任を持つことです。その後の責任とは何か。それは山奥の施設にぶち込むことではありません。お母ちゃんがいなくなったとしても、そのお母ちゃんに代わる愛情を子どもに注ぐ。それが里親であったり、特別養子縁組であったり、そうでなかったとしても街中のユニット型の養護施設で過ごしてもらう。これまでと大きく環境を変えずに、かすかな親族関係や友達関係は残せるようにする。

 行政が早期に毅然と対応するということは、子どものその後についてもしっかりと責任を果たすべきなのです。そうすると、里親的な環境整備は必要となります。だから明石市は2年後に児童相談所を作りますけど、今年から本格的に里親のなり手を広げる制度を作っています。少なくとも小学校に入るまでの子どもについては100%、里親による家庭的な環境にするという目標を明確化して、進めている状況です。これは児童相談所とセットなのです。

こども食堂の担い手は将来の里親でもある

 こども食堂が月2回とすると、今週の木曜日はこども食堂ですけど来週はない。じゃあ来週の木曜日はウチに来ないかと言って、気になる子どもに対して家に招き入れて、筑前煮でも食べて一緒にテレビでも見て過ごす。こういったことが間もなくスタートします。

 だから、こども食堂は単なる月2回の食事の場ではありません。そこに関わった方々が、将来的な里親のなり手予備軍なのです。そういった形で地域における子どもとの関わりを増やし、そして関わった方々を体験里親とか、ごはん里親としてマッチングをしていく。

 明石市の特徴は、単に児童相談所を作るということではないのです。子どもに対してトータルに、その子どもが大人になるまでの過程を、子どもに最も近い基礎自治体として責任を果たそうとしている。しかし行政・市役所だけでは果たせませんので、まさに地域の皆さん、市民と一緒になって子どもを支えるということを始めているのです。

――先ほど市長がおっしゃっていたことで、すごく納得したのですけど、日本の児童相談所は、名前からしても親が子どもについて相談する場所として始まったのではないでしょうか。海外だとチャイルド・プロテクションであって、子どもを保護する責務を負っている所。日本もそこに転換していく時期で、これからは実親の同意が取れなくても子どもの福祉を優先し、弁護士や裁判所が関わるケースが増えていくと思うのです。明石市の考え方がその先を行っているなと思いました。

 例えば私、この1年くらいで全国10数カ所の児童相談所を回っていますけど、劣悪な環境の所もあります。一時保護所が小さい部屋に24人詰め込みのまさにタコ部屋。息が詰まるような空間です。また、外にある庭が周りのマンションから見えてしまっているところもあります。これでは、児童相談所自体が児童虐待の現場です。そういう状況の中で、明石市は先進的でも何でもありません。ほかがひど過ぎるのです。子どもをイジメているようなものなのです。だから、せめて明石市は子どもをイジメないようにしたいだけです。

 そこは本当に発想の転換、価値観の転換が必要なのです。そのためには、ポイントが二つあります。一つは、日本社会が子どもを人格ある主体として見ていないということです。結局、世帯主義なのですね、日本社会というのは。要は行政があまり地域や家族に関わらない方がいいという文化です。

 それは何故かというと、農業や漁業中心の文化でしたので、大家族、コミュニティーによってセーフティーネットが張られている社会でした。こういった社会においては、行政は年貢を取る存在なので、行政権力というものが地域とか家族に関わるというのは良くないこととされてしまう。お上意識は強いけど、できるだけお上には関わってほしくないという意識が、今でも続いています。

泉房穂 明石市長

家族任せ、世帯任せを突破する

 例えば、私が育ったのは漁師町です。父親も祖父も曽祖父も漁師です。そして私は貧しい漁師の息子です。そういった状況の中で、何が起こるかと言うと、例えば障がいを持った子どもが生まれます。だけど困りません。少し障がいのある子どもが生まれても漁師になります。私の周りもみんなそうでしたけど、中卒で漁師でしたから。障がいがあろうがなかろうが中学校を卒業したら生まれ育ったコミュニティーの中で漁師になるのです。

 漁師になったら、それほど難しいことが分からなくても、力が強かったら網を引きます。ちょっと足が悪くても縄を綯ったり、タコを捕るためのタコツボを作ったりします。何かしら役割はあるのです。つまり、身体障がいであろうが知的障がいであろうが、漁師町社会では所得補償が成り立っているわけですよ。

 加えて言うと、私の父親は10人兄弟でした。そのうち、長男と4番目の姉の旦那が戦争で亡くなりました。その時に長男は既に結婚していて子どもがいました。4番目の姉も妊娠していました。そこで何が起こったかと言うと、長男の妻と子どもは5番目の兄が引き取りました、再婚したのです。4番目の姉が産んだ子どもは、私の父親があやしました。大家族社会、地域コミュニティーでは、ひとり親家庭支援ができていたのです。そして障がい者の支援も。

役所目線、親目線ではなく、子ども目線で支援する

 ですが、そのような社会はもう無くなっています。サラリーマン社会ですし、核家族ですから。障がいを持った子どもが生まれた時に、みんなで支え合うようなセーフティーネットの機能はほとんど無いわけです。そうなってくると、それを家族任せ、世帯任せじゃなくて、行政がマンツーマン的に支援することが必要なのです。

 それなのに未だに日本社会は、世帯主義です。そうした中で何が起こっているかと言うと、「障がいを持ったこの子を残して死ねない」と母親が言って無理心中するとか。そんなのは間違いです。「私が死んでもこの子は大丈夫」という社会にしなければいけないのに、「この子を残して死ねない」と親が言い、周りも「そうね」と言う社会は間違っているんです。ここの部分が日本社会はまだ突破できていない。

 被災者生活再建支援法も改正されましたけど、災害の時の単位も世帯単位です。親子関係がうまくいってなければ支援が受けられません。どうして個人単位で見ないのか。結局、親単位とか世帯単位で発想することを続けてしまっている所に、日本社会の非常に大きな問題点があり、そこの転換ができていないので、目線が未だに役所目線や親目線になってしまっていて、子ども目線になっていない。これが一つの大きなポイントです。

泉房穂 明石市長

家庭訪問は絶対に必要

 もう一つのポイントは、行政と子どもとの関わり方の問題です。日本社会はこれまで、「法は家庭に入らず」とか民事不介入が流行りました。行政というものはあまり家庭訪問をしない方がいいという、マイナスイメージが残っています。例えば、役所の職員が来るというと、滞納していた税金を取りに来るとか(笑)。つまり支援のために行政が家庭に行く文化が根付いていません。基本的に役所が家庭訪問をし、子どもに向き合うということがまだ始まっていないのです。

 明石市には、弁護士の常勤職員が私以外に7人います。電話1本かかってくれば家庭訪問をして、弁護士資格のある職員が枕元で相続の相談をしたり、離婚の相談をやっています。好意でやっているのではありません。市役所の仕事としてやっているので、「来てください」と言われたら行くのが当たり前です。完全に発想をひっくり返しています。

 もちろん全家庭を訪問するのは難しいですから、お越しいただける方はお越しいただきます。けれども、足が悪くて歩けない人だけではなくて、精神的な疾患があり市役所に行きにくい人もいます。そんな人目に付くところでは相談できないという人も含めて、家庭訪問は必要なのです。その発想の転換が要ると思います。

一人の子どもも見捨てない

 話を戻しますが、子どもは親の持ち物ではありません。子どもが親に相談して、親に判断の決定権があるわけではない。しかし、子どもはなかなか自ら判断できない。ましてや胎児なんか絶対に判断できません。そうすると、行政が子どもにとって何が望ましいのかという観点から支援をしたり、場合によっては毅然とした対応をする必要がある。

 そしてその関わり方は、母子健康手帳を取りに来てくれたら、その方の相談に乗りますよというのが、先駆的といわれる自治体の対応の中身です。これは別に100%ではありません。来た人だけの100%。そうではなくて、来ない人も含めた子ども全部の100%。すべての子どもを一人も見捨てないという発想になると、当然そうなります。

 そうではなくて、役所は待っていればいいのだとなると、「来ない人が悪い」「市役所に相談にも来ないような親の子どもだから仕方がない」「親の因果が子に報い」というような考え方になってしまうわけです。ここが非常に理念的に重要な所だと、私は思っています。

 私としてはずっと前から、辛口でこうしたことを言ってきましたけど、文句つけてるよりは自分でやった方がいいと思ったので、市長になって、市長として、今言っていることを一つずつ置き換えていっている。保健師も大幅に人数を増やし、土日夜間も保健師が家庭訪問できる体制を作る。そういった部分が行政としてやるべきことだし、明石市としてはそれを安定的に行なっていくことによって、他の市町村にそれを参考にしていただいて、自然に広がっていくことを強く願っています。

(後編へ続く)

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