大切なことは障がいをもつ弟が教えてくれた―泉房穂 明石市長に聞く(後編) (2017/8/10 政治山)
――あかし里親100%プロジェクトについてお伺いしますが、就学前の乳幼児里親100%と小学校区に里親を配置するというのは、達成できたら日本で初めてだと思います。それについては、どのような課題を感じていらっしゃいますか?
100%というのはその子どもに即した環境をちゃんと達成するという目標です。すべて里親が望ましいとも限りません。一人一人の子どもにとって、その子どもが最も選択したい環境を、行政が責任を持ってアレンジし、調整するということだと思います。
ただその時に、里親的な部分が望ましい子どもの率は高いと思われます。それに対して、里親の受け皿が極端に少ないのが実態です。子ども目線から行くと、子どもの環境を大きく変えないという意味において、できる限り小学校区単位の所で、里親的環境の受け皿体制を整えていきたい。もちろんケースバイケースですが、親子関係はそんなに悪くないけれども事情がある時などは、そこの地域で引き続き対応し、親にも少し関わっていただくというのは、十分あり得る選択肢です。ですから、すべての地域に里親的環境を整備する意味において、全小学校区に里親の登録者を作っていくのが目標の一つです。
そして、小学校に入る前の子どもについては、できる限り家庭的な方が望ましいと思われますので、まずそこをしっかりとやっていく。そういった観点から、明石市としてはまずは子どもが育った地域でできる限り対応できるようにしたい。そして小学校に入る前の子どもについては、家庭的環境が望ましいケースがほとんどでしょうから、100%を掲げてやっていきたいと考えています。
里親という言葉のバージョンアップを
課題としては幾つもあります。まず里親という言葉自体のイメージが浸透していない。里親と検索すると犬や猫の里親の方が先にあがってきます。こども食堂なんかは「いいですね!やりましょう!」という感じですけど、里親という概念そのものが応援する空気感になかなかなっていない状況です。だから、明石市として里親に代わるキーワードは何かないかと模索しております。これは、明石市だけで考えるよりも、日本財団さんと厚労省さんあたりがよく相談をして、新しく気の利いたキーワードのキャンペーンでも張っていただけたらと思います(笑)。
これは不可能ではありません。例えば、かつては「痴呆」と言われてましたけど、一気に「認知症」となり、今やこれを「痴呆」と言う人はほとんどいません。あとは「知的障がい」も「精薄」「精神薄弱」でしたが「知的障がい」に置き換えようとなって、今や「精薄」と言う人はほとんどいません。「統合失調症」も、今や「精神分裂病」という言葉は死語になったと思います。そういう意味では、かつて当たり前だったキーワードが、一気に入れ替わるということはあり得るのです。里親という言葉は良い面もありますけど、古びてきている面もあるので、概念そのもののバージョンアップを図ってもいいのかなと思います。
次に、明石市には実際上まだ措置権がありません。児童相談所を設置して初めて里親委託権限がありますので、現在は啓発的な部分に取り組んでいます。今年の10月に歌手の川嶋あいさんに来てもらって大きなイベントをやるとか、市の広報でも大きな特集を組んだりして、まずは、市民の皆さんにこのテーマの大事さをご理解いただく。
それに加えて、マッチングにつながる意味での里親相談会を毎月行っています。また、こども食堂に関わっている方々に、「ごはん里親」と言っていますけど、「一人こども食堂」「我が家こども食堂」と言ってもいいかもしれませんが、自分の家に子どもを迎え入れてご飯を一緒に食べる。場合によっては一緒に風呂に入る、泊まっていく。そうした形で、地域においてかかわりの深い大人を増やしていくということは始めています。ごはん里親については、市の事業として実費相当をお渡しするようにしています。
あとはこのテーマについて取り組む自治体の少なさ、やる気のなさというのが大きな課題です。明石市だけがやっていると、「明石市さん、あれもこれもマニアックなことをよくやりますね」となる。しかしながら、これはマニアックなことではありません。本来やるべきことを、明石市が遅まきながらやっていることが、どうしてマニアックで変わったことなのかと。本来やるべきことをみなさんがやっていないことが問題なのです。
子どもに寄り添えるような支援体制を全国で
それから他の自治体では、児童相談所の所長が課長級の扱いとなっています。これほど愚かなことはありません。児童相談所という子どもの命の責任を負う極めて責任の重たいポストが課長級ですよ。出先機関の住民票を発行する支所の所長が課長級ですから、住民票を間違いなく渡す責任があるポストと、児童相談所の所長が同じなのです。
明石市では部長級とする予定です。所長が課長級だと、部長に決裁を上げる、伺いを立てるわけです。市長決裁が本来ですけど、全部は無理なので、一定の実務的な現場の決裁は部長に任されるわけです。そういった行政の仕組みの中で、課長というのは迅速な対応ができません。そのこと自体が、児童虐待の問題や児童相談所がいかに軽んじられているかの象徴だと思います。
だから、明石市が頑張っているのではないのです。現状が子どもに対して申し訳ないような状況の中で、せめて明石市は、もう少し子どもに寄り添う対応をしたいと。子どもに寄り添うというのは、目線もそうだし体制もそう。「早く!長く!みんなで!地域で!」という対応を実際にできることから始めている。でも一人ぼっちで頑張るのではなくて、もっとしっかりと他の地域にも広がってほしい。
全国的に市町村や都道府県や国と連携しながら、子どもに寄り添えるような体制を作っていく。そうした機運は高まりつつあると思っています。国に期待するのは、財源確保と全国的な制度設計です。例えば、明石市では児童扶養手当の毎月支給をモデル的に始めています。4カ月に一回のまとめ支給になっている児童扶養手当を毎月家庭訪問し、1カ月相当分ずつ渡すことを、10世帯だけですが始めました。家に行って、家計簿をつけてくださいと言ってお金を渡して、まもなくもう10世帯増やして20世帯。本当はこのようなことは国がすべきです。明石市だけが児童扶養手当を毎月支給するのは望ましくなくて、ちゃんと国家システムとしてやるべきです。そんなにお金が要るわけではないのです。
明石市でもできるんだから、他所でもできる
一方で明石市は、児童相談所を自腹で作ります。だから他の市から「明石市はお金持ちですね」と言われます。誰が金持ちなものですか、貧乏な市ですよ。その貧乏な明石市ができるのに、もっと財政的に余裕のある市ができないわけがない!と私は思っています(笑)。そこは国が、児童相談所を作るのであれば初期投資ぐらいは持ちますよと言えば、一気に変わります。ですから国には、財政的な応援と、子どもに寄り添うような制度設計の改変をしてほしいと思っています。
それから県については、児童相談所は明石市が作りますけど、関連施設、自立支援施設などを市単体で持つのは合理的ではありません。こうした施設は、一定規模の広さに一つという方が合理的ですので、県による広域的な対応をしてもらって、市と連携していくことが重要です。ただ、生活支援とか迅速な対応は市の方が望ましいです。総合的な支援サービスを持っているのは市であって、都道府県は基本的に福祉サービスを持っていませんから。顔の見える支援は市、箱物系は県がという風に役割を分担すればいい。その財源とか大きな制度改正とかは、国が責任を持つということかと思います。
――なるほど。ところで昨年、三重県の鈴木英敬知事が中心となって子どもの家庭養育推進官民協議会という、自治体と民間団体の協議会が立ち上がり、今年から明石市さんも加入してくださいました。日本財団は協議会の事務局を引き受けていますが、今、この協議会で里親推進のロゴとキャッチコピーを作ろうとしていますので、ぜひ明石市でも活用していただけたらと思います。
ロゴと言えば、この日本財団さんのマークは良いですねえ。感動するわ~!斬新だし、このマークはスゴイ!(笑)。さて、どうやって里親を広げていくかというテーマは非常に大事です。その上では、これまで里親をやってきていただいた方々に、里親のすそ野を広げることに協力をいただかないといけません。そうした方々が、新しい里親を支援していく、スーパーバイズしていくという流れをどう作っていくか。実際に里親をやっている方々のプライドとかやりがいといった部分を、どのように制度化していくか。明石市としても、里親をしっかり広げていく方向を模索中です。その意味で、協議会が作成するロゴとキャッチコピーには、おおいに期待しております。
――今日のお話をお伺いして、子ども目線というのが子ども支援の根幹で、そこから外れると全てが間違ってしまうということがよく分かりました。市長のその揺るぎない信念の原点は、どこにおありなのでしょうか。
そこは私の生い立ちが大きいと思います。一つは、4つ下の弟が障がいを持って生まれました。私は、障がいを持った子どもたちと幼少期を過ごしています。当時は障がい者が集える場所もありませんでした。父親は貧しい漁師で小卒、母親は中卒ですからインテリではありません。でも弟のために必死に何とかしようと思って、立ち上がった時代でした。その頃に4つ上の兄として私は、障がいを持った子どもを持つ親御さんたちのグループと一緒に動いていました。
障がいを持った弟と生き抜いた子ども時代
学校に行けばみんな歩けるし、しゃべれます。自分としてはその両方を行き来していましたから、学校に行くとみんなもっと速く走れ、早く書けとか求められるのに、放課後は障がいを持った子どもが親と一緒になってリハビリに一生懸命になっている。そうした中で隅にポツンと座って、少数感を味わっていました。そして、多数派と少数派は常にある。だから、絶対的な多数派の眼でモノを見るのはどうかと思うようになりました。
そういった中で私の弟は5才で歩き出しました。その時に地元の小学校に行きたいと弟が言ったら、当時の明石市は歩きにくいから行かせてくれないと言う。私は激怒しました。どうして近くの小学校じゃないのかと。歩きにくいからと、電車とバスに乗って遠くの学校へ行けと。こんなの訳が分からないと、子ども心に激怒しました。
そこを何とか親が交渉して、私と同じ小学校に行くことになりましたけど、条件が付きました。何があっても学校を訴えないこと。そして、送り迎えの全責任を家族が負うことです。送り迎えといっても、朝の登校の時間帯は、親はすでに海で仕事をしていますから送り迎えできません。だから兄である私が、送り迎えを全部やりました。その時に、世の中はこんなに冷たいのかという思いを弟目線で持っていたつもりです。
小学校6年生の時の体験がすべての原点
ただ、そういった私でしたけど、私が小学校6年で弟が2年の時の運動会でした。弟は1年の時は運動会を見ていました。それが2年の時に弟が「運動会で走りたい」と言ったのです。「そんなもん走れるか」と私は止めました。走れるはずもなかったのです。でも弟はどうしても出たいと言いました。私も親も止めました。「そんなもん出たって、みんなに迷惑をかける。笑いものにされる」と本当に言いました。でも弟が泣きじゃくって言うことを聞かないので、仕方なく走ることを認めました。30m走でみんなゴールしているのに、弟は走れませんからまだ5mか10mの所をヨロヨロと歩いている。その時に私が思った正直な気持ちは、「みっともない、恥ずかしい」でした。
でも私がそう思っていた時に、弟は本当にうれしそうな顔をしていました。私はその時に本当に反省したのです。自分は弟のためにと思っていたけど、弟の側に立っていなかったのだと。本当に弟のことを考えたら、どんなにみっともなくても恥ずかしくても、走っている弟を応援してあげるべきだったのだと。どうして自分は弟の立場に立たなかったのかと、ボロボロ涙を流しながら思ったのが小学校6年の時です。
弟を近くの小学校に入れるために一生懸命戦った親だって、目立たないように隅っこで拍手してたらいいと思っていたと思います。その親ですら、弟が走るのに反対しましたし、兄の私も反対したのです。いかに本人目線が難しいかということです。私の原点はそこです。それは、子どもに関しても一緒です。話を聞くなり想像力を働かせて、いかに子どもの目線に立つことが大事か。それを痛感したのが、私のスタートですね。
――はい・・・(しばし沈黙)。本日は貴重なお話をお聞かせいただくことができました。明石市のこれからの子ども施策に期待すると共に、子どもに寄り添う社会を実現していくために、私たちも努力していきたいと思います。本当にありがとうございました。
- 子ども中心のまちづくりで人口増と税収増―泉房穂 明石市長に聞く(前編)
- 行政の責任として、すべての子どもに家庭的環境を―泉房穂 明石市長に聞く(中編)
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