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【新しい働き方はどのように生まれた?・海外編】第5回:オーストラリアを変革したウィットラム労働党政権 (2017/10/10 nomad journal

前回は、オーストラリアがイギリスから自治権を獲得し連邦政府を築き、同時に白豪主義を法制化したところまでお伝えしました。その後、オーストラリアはアメリカ、イギリスと連合関係にあったことから、第1次、2次世界大戦、朝鮮戦争、そしてベトナム戦争にまで参加することになり、様々な国際関係のはざまに置かれたまま翻弄されることになったのです。そして次に誕生したのが、オーストラリアの政治に大変革をもたらしたウィットラム労働党政権でした。

オペラハウス

ウィットラム労働党政権の誕生

オーストラリアを変革したウィットラム労働党政権は1972年に成立した政権です。ウィットラムが首相になる前は自由党のメンジースが首相を務めていました。メンジースはオーストラリアで2回首相の座に就いた人で、通算19年間首相を務めました。メンジースの政策はアメリカとイギリスへの接近を強化することで、大国主義の世界戦略を支持し、アメリカ・イギリスと共に連合を形成しました。そのため、第1次世界大戦から始まり、ベトナム戦争に至るまで、オーストラリアは多くの戦争に巻き込まれることになったのです。

こうした、政治体制に反発し、まったく違う政策を掲げて誕生したのが労働党のウィットラム政権でした。ウィットラムは、アメリカやイギリスに追従しない独自の外交政策を打ち立て、これまで国交がなかった中国との国交正常化に力を入れました。

中国との国交を正常化しようとした理由は、労働党のイデオロギーである社会主義を重んじたためで、ウィットラムは中国以外にも東ドイツ、ポーランド、ハンガリー、そして北ベトナムなどの社会主義国との関係を進展させていきました。

(現在、東ドイツは西ドイツと統一されドイツとなり、北ベトナムも南ベトナムと統一されベトナムになっています)

多民族政策によるヨーロッパ系移民の流入

ウィットラムのもう一つの政策は多民族政策でした。多民族を受け入れることにした理由は、第一に、オーストラリアの国土の防衛のために兵員の確保が必要だったことと、第二に経済開発のために労働力が必要になったことが挙げられます。

そのために、それまで移民の受け入れのために使われていた言語テストを廃止し、「ポイントシステム」に切り替えました。このポイントシステムでは、年齢、教育レベル、技能、職歴などをポイントで評価し、受け入れ基準のポイントに達成すれば移民として受け入れてもらえることができました。この制度は、現在でも移民受け入れ基準として使われています。

このようにして、多民族主義が始まったのですが、この時点ではまだ白人という枠を越えることはありませんでした。つまり、イギリス系に特化した移民制度には終止符を打ちましたが、新たに受け入れるようになったのも、イタリア人、ギリシャ人、ユーゴスラビア人(現在のセルビア人やクロアチア人など)、ドイツ人などのヨーロッパ系の移民だったのです。したがって、白人という枠の中の多民族化で白豪主義に変わりはありませんでした。ここでも、当時のオーストラリアが、有色人種を受け入れることにいかに敏感になっていたかがわかります。

白豪主義を一変させたベトナムの難民

ところが、オーストラリアの白豪主義を一変させる出来事が起こりました。それは、1975年のベトナム戦争の終結に伴い、多くの難民がボートに乗って、アメリカやオーストラリアを目指してベトナムを離れたことです。

ここでも、労働党のウィットラム政権はベトナムの難民を受け入れるべきかどうか苦しい選択を強いられました。それは労働党とは思想の違うベトナム難民を受け入れれば、労働党に反対する人を増やすことになるのではと心配したためでした。

実は、ウィットラム政権の前のメンジース政権の時に、オーストラリアはアメリカ・イギリスの連合国(南ベトナム側)としてベトナム戦争に参加していたのですが、社会主義思想を持ったウィットラム政権は、当時社会主義だった北ベトナムと友好関係を持っていました。そのためウィットラムはベトナム戦争の途中からオーストラリア軍を撤退させているのです。

そうした背景の下、北ベトナムが勝利を収め、ベトナム全土は社会主義の国になったのですが、難民となったベトナム人は自由主義だった南ベトナムの出身者ばかりでした。

思想の違いを心配したウィットラムでしたが、当時オーストラリアが国際社会で認められることも必要と考え、1975年、1093人のベトナムの難民を受け入れることにしたのです。これにより70年以上も続いたオーストラリアの白豪主義に終止符が打たれることになりました。

総督に罷免されたウィットラム首相

すべてがうまく行ったかのようにみえたのですが、これには後日談があります。

ウィットラムは前述のように外交面でも手腕を振るったのですが、内政でも多くの改革を実施しました。具体的には「大学の無料化、学校補助金の交付、国民保健制度の採用、女性の地位向上、文化芸術活動への支援金、アボリジニの土地所有権の承認」(「物語 オーストラリアの歴史」より)などです。

ただ、短期間であまりにも多くの変革を行ったため、歳出が急激に増え経済が困難に陥りました。これに対し、1975年11月、時の総督であったジョン・カーはウィットラムを首相の地位から罷免(ひめん)してしまいました。

総督による罷免は憲法違反ではないのかと大きな物議をよびましたが撤回されず、ウィットラム政権は3年という短い政治生命を絶たれてしまったのです。

しかしウィットラムが行った改革は、その後のオーストラリアの発展に大きな影響を与え、現在のオーストラリアがあるのもウィットラムのおかげであるというのがオーストラリアの一般的な考え方になっています。

記事制作/setsukotruong

提供:nomad journal

■新しい働き方はどのように生まれた?・海外編
第1回:オーストラリアの始まり、原住民と流刑地
第2回:植民地の形成、弾圧型と鎖国型の違いとは?
第3回:植民者の生活と働き方が一変したゴールドラッシュ
第4回:「白豪主義」白人の労働者を守るために法制化

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