【新しい働き方はどのように生まれた?・海外編】第2回:植民地の形成、弾圧型と鎖国型の違いとは? (2017/9/19 nomad journal)
前回の記事では、なぜイギリスがオーストラリアを植民地にしたかを説明しました。一番の要因は、当時イギリスの植民地だったアメリカが独立戦争に勝利し、イギリスから独立したことにより、他の植民地としてオーストラリアを選んだことでした。
では、イギリスは植民地としてのオーストラリアをどのように管轄していったのでしょうか。
なぜアメリカ独立戦争が起こったのか
オーストラリアは地理的にアメリカから遠く離れているため、物理的にはアメリカと何のつながりもありませんが、国家形成の過程では、アメリカの独立戦争(アメリカでは独立革命と呼ばれています)の影響を多大に受けています。
まず、アメリカ独立戦争前のアメリカの背景がどのようなものだったかをみてみましょう。
イギリスがアメリカを植民地にしたのは1607年で、最初の植民地はバージニアに建設されました。その後も植民地化が進み、東海岸に13の植民地が成立しました。このようにしてできたアメリカの植民地で、イギリスは植民地の住民に対し砂糖法や印紙法などの税法を適用し、課税を強化していきました。重税に苦しめられることになった入植者たちはやがてイギリスの管轄に不満を抱くようになり、独立運動を始めるきっかけになったのです。
アメリカ独立戦争からの教訓
アメリカ独立戦争は、1775年にボストンで、イギリス本国の軍隊と植民地の民兵が衝突したこと(レキシントンの戦い)から始まりました。その時に植民地軍の最高司令官に任命されたのが、後にアメリカの初代大統領になったジョージ・ワシントンでした。独立戦争は、最初、植民地軍にとって厳しいものでしたが、後にフランス、ドイツ、ポーランドなどの義勇兵が味方に加わったことで、1783年に勝利をおさめ、アメリカは正式な独立国となったのです。
そこで植民地としてのアメリカを失ったイギリスは、植民地化の新天地としてカナダやオーストラリアに目を向けることになります。しかし、アメリカ独立戦争における敗北はイギリスにとって苦い教訓となり、ここからイギリスの植民地主義政策が大きく転換していきました。
獨協大学の教授である竹田いさみ氏はオーストラリア研究の権威者でもあるのですが、その著書「物語 オーストラリアの歴史」で次のように述べています。
「アメリカが独立していなければ、オーストラリア全土がイギリスの植民地にならなかったかもしれない。ニューカレドニアやフレンチ・ポリネシアと同様にフランスの植民地になっていた可能性は十分ある。」
オーストラリにおけるイギリスの植民地政策とは
アメリカ独立戦争に敗北したイギリスは、植民地に重税を課すことなど圧力を加えることでは結果的には自分たちに有利にならないことを学びました。そのためオーストラリアでは、植民地として総督を置いて管轄をしながらも、アメリカに対して行ったような厳しい課税制度や弾圧をしませんでした。
その代わりに、他の大陸から遠く離れているというオーストラリアの地理的特異性を利用しました。具体的には、海外から持ち込む物資を最低限の生活必需品に抑え、イギリスからの船の来航を極力少なくし、造船を禁じることによって、植民者の逃亡を不可能にする鎖国状態を造り出したのです。そうなると、反抗する者は飢えるしか術がなく、しかたなくオーストラリアに従わざるを得なくするという方法で植民地を管轄していったのです。
このようなイギリスによる管轄はその後曖昧な状態で維持され、現在でもオーストラリアは民主主義で首相が統治する国でありながら、同時にイギリス連邦に加盟する国家にもなっています(※)。つまり、独立国家でありながら、イギリスのエリザベス女王が君臨する君主国であるという曖昧な国家ステータスになっているのです。日常の生活ではイギリスの存在を強く感じることはほとんどなく、最近では、一国としてのアイデンティティを求めて、完全に独立しようとする動きも出ています。
※イギリス連邦:イギリスとその植民地であった独立の主権国家から成る、独立国家のゆるやかな連合
オーストラリアにおけるアイルランド人
オーストラリアの植民地化について、前回は原住民のことについて書きましたが、イギリスから渡って来た植民者はどうだったのでしょうか。オーストラリア植民の歴史をみると、アイルランド人のことが頻繁に出てきます。実際、1830年から1850年の20年間に、イギリスからオーストラリアに渡った者の中でアイルランド人の占める率は48%にも上っています。ではなぜ多くのアイルランド人が海を渡って、イギリスから見ると地の果てのようなオーストラリアに移住したのでしょうか。
イギリスでは、1801年にアイルランドが併合されました。併合という言葉は様々な解釈がありますが、ここではイギリスがアイルランドをアイルランド人の意思に反して自国の一部としたという意味で、その時からアイルランドのイギリスに対する抵抗が始まったのです。そして1848年にはついに、自由を求める青年アイルランド党による武装蜂起が起こりました。
アイルランド人がオーストラリアに移住したのは?
この武装蜂起では死者はほとんどでなかったのですが、武装蜂起に参加した人の多くは逮捕されました。逮捕された反乱者のほとんどは学識者でした。そのためイギリスは更なる反乱を恐れ、こうした人々を殺さないでオーストラリアに流刑することにしました。かくして、オーストラリアに送られた囚人の中には、政治犯と呼ばれるアイルランド人が多く存在したのです。
その後も、カトリック教を主宗教とするアイルランドでは、イングランド国教会を国家宗教とするイギリスによる改宗への弾圧が続きました。転機となったのは、1845年~1849年にかけて起こった大飢饉です。アイルランドの主要農産物であったジャガイモが害虫の被害に襲われ、収穫が激減。さらにそこから副次的な病気が発生し、1年間で100万人が死亡するという大危機に直面したのです。このため、生き残ったアイルランド人は新天地を求めて他国に移民しなければなりませんでした。
以上のような史実により、オーストラリアにはアイルランド人の人口が多くなりました。アイルランド人はその後、政界で活躍し、これまでに7人がオーストラリアの首相となり、近代のオーストラリアの形成に影響を与えることになったのです。
記事制作/setsukotruong
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