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【新しい働き方はどのように生まれた?・海外編】第3回:植民者の生活と働き方が一変したゴールドラッシュ (2017/9/26 nomad journal

イギリスやアイルランドから渡航する人が増え入植が進んたオーストラリアでは、1800年代の中ごろになると、シドニーとメルボルンで金鉱が見つかり、ゴールドラッシュが始まりました。そのため、金採掘の労働力として国外から多くの人がオーストラリアに移住しました。とくにメルボルン近くの金鉱は埋蔵量が多かったため、移住した人の数も多く、当時のオーストラリアの社会に大きな影響を与え、オーストラリア人の生活と働き方が一変することになりました。

金塊

金の発見と国外からの移住者の増加

オーストラリアの植民地の始まりがアメリカの独立戦争に影響を受けたように、オーストラリアのゴールドラッシュもアメリカのゴールドラッシュの影響を受けました。アメリカのゴールドラッシュでは、地層近くにあった金の埋蔵量が少なかったため、すぐに枯れ果て、残った金の取り合いで多くの争いが起こりました。アメリカに見切りを付けた人の中には更なる金を求めてオーストラリアに渡った人が多くいます。

オーストラリアで最初に金が発見されたのはシドニーでしたが、その後メルボルンでも発見され、そのニュースが世界各地に伝わると、金を求めて、オーストラリアに移住する人が増えました。また、金を採掘するための労働力として雇われ移住した人もたくさんいます。

オーストラリアにとって幸いだったのは、簡単に採掘できる金の埋蔵量が多いことでした。そのため、多くの人が金の恩恵にあずかることができ、アメリカほどの争いが起こらなかったのです。

メルボルンの金鉱の町バララット

メルボルンのゴールドラッシュは1851年から1860年まで約10年間続きましたが、この間に人口もそれまでの76,000人から540,000人と驚くような数に増え、金鉱の中心地だったバララットやベンディゴには一つの町が誕生しました。

特にバララットは規模が大きいことで有名です。この町はメルボルンから西に車で1時間半くらいの所にありますが、現在は当時の金鉱やその周りにできた店や宿泊所などが保存され、メルボルン屈指の観光スポット(ソブリンヒルというテーマパークです)として多くの観光客が訪れます。その金鉱の跡を訪ねると、ぼろぼろの掘っ立て小屋やテントなどに住みながら金の採掘に翻弄していた、当時の人々の生活を垣間見ることができます。

移住者の中でも多かった中国人

さて、話をゴールドラッシュの時代にもどしますが、金採掘のためにオーストラリアに移住した人々の中で最も多かったのは中国人でした。その頃アメリカで奴隷制が廃止したことに伴い、アフリカからの奴隷の代りに、中国人が安い労働力として雇われるようになり、オーストラリアでも金の採掘のために多数雇われたのです。ゴールドラッシュの最盛期である1854年~1858年における中国人の数は45,000人と言われており、これは当時のオーストラリアの人口の3%にも上っています。

1860年には、シドニー、メルボルンにおける金の採掘は下火になっていたのですが、同じころクイーンズランドや西オーストラリアでも金が発見されるようになったため、中国人はシドニーやメルボルンだけでなく、オーストラリア各地に住みつくようになりました。これが、オーストラリアにおける中国人の人口がイギリス人、アイルランド人、スコットランド人に次いで多い理由です。

白人にとって脅威となった中国人の存在

このようにオーストラリア全体に渡って、中国人の数が増えて行ったのですが、前述したように、オーストラリアでは金の埋蔵量が多かったので、大きな争いはあまり起きませんでした。そして、中国人にも白人との結婚が許されるなど、かなりの自由が与えられ、アメリカと比べるとそれほどの迫害も受けませんでした。

しかし、中国人はどの国でも集団を作り、チャイナタウンなどを形成し団結して助け合うことを常としています。これが悪く受け取られてしまい、オーストラリアの白人社会にとって脅威として映るようになってしまいました。特に、オーストラリアの白人たちの間では中国人に仕事が奪われているという考え方が広まり、この考え方が、後に、オーストラリアの歴史で大きな意味を持つ「白豪主義」に発展していったのです。(白豪主義については次回の記事で触れたいと思います。)

金により経済力をつけ独立国家へ

植民が始まったころは、イギリスの流刑地として使われていたオーストラリアでしたが、金の発見によって、オーストラリアは「宝が眠る場所」として国内外で注目を浴びるようになり、多くの人が移住してきました。そして、金の採掘を通してだんだん経済力をつけて行きました。それまでは、植民地としてイギリス本国の管轄下に置かれていたわけですが、経済力の発達に伴い、オーストラリアとしての自治権の要求とそれに付随した独立への機運が高まりました。そしてついに1901年、オーストラリアの住民たちは連邦政府を作り、イギリスから独立していったのです。

もしオーストラリアで金鉱が発見されていなかったら、オーストラリアはいまだにイギリスの管轄下に置かれていたかもしれません。その意味でも、現在のオーストラリアがあるのは金があったからだともいえます。

記事制作/setsukotruong

提供:nomad journal

■新しい働き方はどのように生まれた?・海外編
第1回:オーストラリアの始まり、原住民と流刑地
第2回:植民地の形成、弾圧型と鎖国型の違いとは?

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