“点”で終わらせない復興 きっかけ食堂がつなぎ続ける東北の縁 (2019/2/8 70seeds)
「3.11」東日本大震災から8年。現在でも、600以上の団体が「復興支援」のために活動を続けている。
時間が経つにつれ、震災の傷跡は撤去され、真新しい建物が並んでいく。少しずつ日常の風景を取り戻していく被災地を見て、私には一つの疑問がある。「復興はどこまでいったら終わるのか?いま、復興というゴールの何合目まで来ているのか?」
そんな疑問を抱きながら出会ったのは「東北の食材を使った料理やお酒を提供し、その味を通して、毎月11日に東北や震災について考える場を作る」活動を続けてきた、きっかけ食堂の原田奈実さん、弘田光聖さん。彼らにとって復興とは何か、活動の目的は何なのか。
「行っただけ」では知りきれない。
きっかけ食堂さんの発起人である原田さんは京都府出身。震災が発生した2011年はまだ16歳だった。直接の被災者ではない原田さんが、復興支援に取り組みはじめた理由はどこにあったのか。
原田「きっかけ食堂を始めたのは、震災から3年目の2014年。“震災の風化”が問題視され始めていた時期でした。そんななか、私がお世話になっていた東北の方が『忘れられてるのかな。忘れられているのは悲しいね』とふとこぼした言葉が頭に残っていて…。
私にできることは何だろうと考えたとき、『私が大好きな東北を少しでも多くの人に知ってほしい』という気持ちがあることに気づいたんです」
震災を風化させたくない。おばあちゃんの気持ちを、一人でも多くのひとに届けたい。
原田さんが初めて起こしたアクションは、東北へのバスツアーだった。大学の同級生を中心に40名近くを集め、ボランティア活動から被災者の講演会まで、震災を肌で感じる機会を提供したという。
しかし、企画を終えた原田さんのなかに残ったのは課題意識だった。
京都からのボランティアバスツアーでは距離や時間のハードルが高く、継続して東北に関わる機会を作るのは難しい。一度きりのイベントだけの関わりでは、風化を加速させてしまうと感じたのだ。
原田「“点”ではなく、継続して東北と関わり続けてもらうことが大切なのでは、と気づいたんです」
「被災地との継続的な関わり」をつくるためにどうしたらいいのか。悩んだ末にたどりついたのが「食堂」だった。
「きっかけ食堂」2つのルール。
誰もにとって身近な「食」。東北の美味しい食材を使うことで、無理なく東北や震災を思い出したり、考えたりすることができるのではないか。
そう考えた原田さんは、震災と共に過ごす食堂のオープンを決断。開店にあたって2つのルールを設けた。
原田「1つ目は、毎月11日にきっかけ食堂を開催すること。2つ目はきっかけ食堂内できっかけカードと仕掛けを使い、東北をテーマにお客さん同士で会話をしてもらう時間を取っていることです。
ただ、無理に震災を思い出す時間ではないので、震災を思い出したい人は思い出す。食を楽しむ人は楽しむ。それぞれの求める関わり方で、東北と継続的に関わってもらいたいと思っています」
「きっかけ食堂を始めた当時、遠い京都から継続してできることはなんだろうと頭を悩ませていました。せめて毎月11日だけでも、東北や震災について考える時間を作りたかったんです。私の周りでは東北への想いはあっても、距離や時間の問題で東北に行けないと悩んでいる方が数多くいましたから」
無理なく、震災を考える機会をつくる。原田さんは2014年から約5年間、全国各地できっかけ食堂を続けてきた。共にきっかけ食堂を運営してきた弘田光聖さんには、現地の生産者とコミュニケーションを重ねる中で、育ってきた思いがある。
弘田「私は、東北の生産者さんのアピールがしたいと思うようになりました。食堂を運営していると、食材の仕入れをする過程で素敵な生産者さんに出会います。彼らのためにもっと役に立ちたい、もっと伝えていきたいという気持ちが芽生えたんです」
原田「東北を大好きな気持ちは変わっていません。続けてきたことで、東北のことを想っている仲間がこんなに沢山いるんだと気づきました。きっかけ食堂に来る人は、学生や社会人、職業も肩書もバラバラ。日常生活では、東北との関わりがない人々ばかりです。『毎月11日だけは東北を想いたい』と毎月たくさんの人が集ってくれるようになったことがとても嬉しいです」
「復興」と言わない復興のかたち
日本全国で“震災と触れ合う食卓”を運営してきた努力は、行政にも届いていた。2018年の2月には復興庁から「新しい東北~復興・創生~」顕彰を受賞。
しかし、高齢化が進む東北では悲しいニュースに接する機会も増えたという。
原田「いつも元気をもらっていた大好きな生産者さんから『震災後、お客さんが引っ越しをしてしまったり、大きいスーパーができたりと、色んな要因があって続けられなくなった』と聞き、私たちでどうにかできなかったのか?何かできることはなかったのか?と自問したのを覚えています」
世間に認められる一方で、現地の問題が解決されたわけではない。ここで、筆者は抱いていた疑問を率直にぶつけた。
「復興って、どこまで続ければいいんでしょう?」
弘田「きっかけ食堂では復興を明確に定義はしていません。また復興や支援という言葉を活動内でほとんど使っていないんです。純粋に、東北に関わる楽しい時間を生み出し、その結果被災地の復興や東北エリアの地方創生に貢献できればと考えているからです。
昨年の秋には“きっかけツアー”を実施し、食堂のお客さんと一緒に被災地を回りました。食をきっかけに入ってくれた方が、実際に被災地にきてくれたのは嬉しかったですね」
原田さんが最初に取り組んだ“点”のツアーではなく、継続の先にある“到達点”としての体験。関わりをつなぎ続けたいという思いを行動に変え続けてきたからこそ、届いた現在。
2人はこれからの「きっかけ食堂」をどのように見据えているのだろうか。
原田「震災の1年後、在宅避難者の方が高校生だった私に「今の若者に期待しているよ」という言葉をかけてくれたことがありました。
被災して大変ななか、強く生きる姿に感動したと同時に、そんな状況の中で自分に期待をしてくれた東北の方々の「期待に応えたい」と強く思ったんです。ずっとその言葉が私の原動力となっています」
弘田「通常の飲食店ではできないような形で、東北・震災を思い出すハードルを下げ、東北と楽しく関わるきっかけをつくる。
ご飯を食べながらお客さん同士が会話をすること、東北の生産者さんを伝えることを大事にしながら、次のアクションが生まれるかたちで東北とお客さんをつなげていきたいと思っています」
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