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【新しい働き方はどのように生まれた?・海外編】第7回:日系企業の進出により、オーストラリア人の働き方が混乱 (2017/10/24 nomad journal

「新しい働き方はどのように生まれた?‐海外編」シリーズでは、第1回から第6回までを通じて、オーストラリアにイギリス人が初めて到着し流刑地として開拓を始めた時代から、現在の多文化主義に至るまでの歴史的な流れを説明しました。

今回からは、そうした流れを念頭に置きながら、働き方に影響を与えた要因に焦点を当て掘り下げていきたいと思います。シリーズ7回目の今回のテーマは、日系企業の進出がオーストラリア人の働き方に与えた影響についてです。

江戸の町

日本とオーストラリアの関係

オーストラリアに日本人が始めて来たのは、明治維新後間もない1870年代とされています。目的は木曜島での真珠貝採取のダイバーの仕事に従事することでしたが、その後日本人移住の大きな動きがないまま第2次世界大戦を迎えました。この大戦では、日本とオーストラリアはお互いに敵国で、オーストラリアのダーウィンが日本軍の空襲を受けたこともあり、当時オーストラリア人の多くは、日本や日本人に対して憎しみや不信感を持っていたようです。

そうした背景を考えると1953年にオーストラリアに初めて日本の大使館が開設されたことは歴史的な出来事だったと言えます。両国の友好的な関係は更に1957年に結ばれた日豪通商条約の締結により強化されて行きました。

日系企業の進出

1957年に結ばれた日豪通商条約の締結によって、オーストラリアからは鉱物や羊毛などの農業生産物が日本に輸出され、日本からは工業製品がオーストラリアに輸入されました。さらに1960年代からは、高度経済成長を通して経済力を付けていた日本の企業がオーストラリアに進出するようになったのです。

その代表的なものは三井物産や三菱商事による石炭の採掘、東京ガスや関西電力によるガス田の開発、キリンビール、日本ハム、雪印乳業などの食品工業への進出、そしてトヨタ自動車、三菱自動車、日産自動車などによる自動車産業への進出などです。

日本式経営とオーストラリ人の働き方

こうして1960年代から1980年代にかけては多くの日系企業がオーストラリアに進出したわけですが、その後日本式の経営方針が、それまでオーストラリアで力をつけていた労働運動とぶつかることになります。

なぜ労働運動が盛んになったかということについては、第2回目の記事でお伝えしたように、オーストラリアに最初に渡った人の中には政治犯として送られたアイルランド人がたくさんおり、そうした強い反骨精神を持った人たちが推し進めたのが労働運動だったわけです。つまり、雇い主である会社への「反発」、ひいてはストライキの遂行、上司に「誠意」を持って接するものを「裏切者」または「おべっか使い」として取り扱うなど、社会主義のネガティブな面を丸出しにしたのが当時のオーストラリア人労働者の働き方でした。ストライキなどの労働運動は日系企業が進出する前からオーストラリア各地で繰り広げていましたが、新しく進出してきた日本の企業の経営方針はこれまでの西洋の企業とは違っており、労働運動を更に加速することになりました。

日本式の働き方・経営方法とは

日本に住んで会社勤めをしていれば、会社勤めとはこういうものだと考え、それが当たり前だと思うことも多いと思います。日本的な働き方を敢えて具体的に書き出してみると次のようになります。

時間厳守。出勤も会議も始まる少なくとも5分前までにはそこに赴いている。上司と部下はもちろんのこと、先輩と後輩など階級がはっきりしており、下からの意見が(ほとんど)吸い上げられない。仕事中私語は控え、大きな声で笑うことも敬遠される。経営にいたっては、無駄を排除し合理化推進。

ところが、私が入社した30年ほど前のオーストラリアの会社は(日系企業であったのにもかかわらず)上述とはまったく異なる状況だったのです。

オーストラリアの職場とは

30年ほど前のオーストラリアの職場が実際にはどのようなものだったのか、それを物語るのにちょうどそのころ書いた記事が残っています。以下その記事からの引用です。

「日本の組合と違って、ここの組合は会社と真っ向から対立し、何か事があるたびにストライキに突入する。・・・・今の会社に入社した第1日目、皆が黙々と仕事をする真剣な職場の雰囲気を想像して出社した私は、そこの職場のなごやかな雰囲気に戸惑ったものだった。あちらこちらから聞こえる笑い声。緊張感の見られない従業員の顔つき。会議に時間通りに来る人はいない。これが職場と言うものかと思ったりもした。日本から派遣される駐在員の苦労も大変なものだった。日本の本社からの圧力と働かない現地の労働者の板挟みとなって頭を抱えていた。」

強い労働組合が働き方に影響

以上の説明から、オーストラリアの職場が日本の職場とどれほどちがっていたか想像してもらえると思います。今思えば、40年~50年前にオーストラリアに進出した日本の企業は、当時のオーストラリアの労働市場や労働運動のことを深く理解しないままオーストラリアに進出してしまったのではないかと言う気がしてなりません。もし良く理解していたら、もう少し違うアプローチを取っていたかもしれません。

その後、グローバル化の波に押されて企業間の競争が激しくなり、労働者も柔軟にならざるを得なくなるのですが、そうなるまでは、オーストラリア各地で会社側と労働組合との対立が頻繁に起こり、ストライキは日常茶飯事だったのです。

記事制作/setsukotruong

提供:nomad journal

■新しい働き方はどのように生まれた?・海外編
第1回:オーストラリアの始まり、原住民と流刑地
第2回:植民地の形成、弾圧型と鎖国型の違いとは?
第3回:植民者の生活と働き方が一変したゴールドラッシュ
第4回:「白豪主義」白人の労働者を守るために法制化
第5回:オーストラリアを変革したウィットラム労働党政権
第6回:移民対策「多文化主義」が果たす役割とは?

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