【新しい働き方はどのように生まれた?・海外編】第6回:移民対策「多文化主義」が果たす役割とは? (2017/10/17 nomad journal)
前回は、ウィットラム政権の変革についてお伝えしました。その中でも1975年のベトナム難民の受け入れは、70年以上に渡る白豪主義に終止符を打つことになり、その時から、オーストラリアは多文化主義の道を歩むことになるのです。
ベトナム難民受け入れ後の移民政策とは?
1975年から始まったベトナム難民の受け入れは、世界的な情勢から止むをえず実施したことですが、その後、ボートピープルの出現により、オーストラリアの難民の受け入れ数は激増することになります。ボートピープルとは、ボートに乗ってベトナムから脱出した人々のことで、こうした人々はまずベトナム近隣のインドネシアやフィリピンなどの難民キャンプに収容されました。
ところがこうした国々はまだ発展の途上にあり経済的な制約が大きかったため、国土が広く人口密度の低いオーストラリアに受入れの要請が来たのです。ウィットラム罷免後に政権を握った自由党のフレーザー首相はこれに応えて、オーストラリアの難民受け入れを本格化しました。数値で見ると、受け入れの始まった1975年が1069人だったのに対し、受け入れピーク時の1979年には12392人となり、現在、オーストラリアに在住するベトナム人の人口は20万人(1.3%)にも達しています。
ホーク-キーティング政権
自由党のフレーザー政権は、1975年から8年間続きましたが、1983年の総選挙で敗れ、次に誕生したのが労働党のホーク政権でした(オーストラリアでは自由党と労働党の2大政党が交互に近い状態で政権を握るパターンが一般的)。ホーク政権はその後同じ労働党のキーティングに受け渡されていくのですが、この2人の首相が務めた労働党の13年間はオーストラリア政治の黄金時代とも呼ばれ、「多文化主義」の安定国家が形成されました。
さて、ホークが首相になった時には、すでにベトナムの難民が多数オーストラリアに移住していましたが、ホーク首相は、フィリピン、香港、マレーシア、インドなどからも移民を受け入れました。この受け入れを後押ししたのが「家族呼び寄せ制度」でした。この制度は、すでにオーストラリアに移民している人が本国にいる家族を呼び寄せられるというもので、最初フレーザー前首相がヨーロッパ系の移民のために採用したものでしたが、ホーク首相はこれをアジア系の移民にも当てはめ強化しました。これによりオーストラリアにおけるアジア系の人口が急激に増えることになりました。では、なぜホーク首相はアジア人の移民政策を強化したのでしょうか。
アジアへの接近
ホークが首相になった1983年前後は、日本が高度経済成長を遂げ経済的なパワーをふるっていた時代であり、また中国経済の発展が始まった時代でもありました。ホーク首相はこうした世界的な変化に注目したのです。つまり、オーストラリアが地理的にアジアに近いことを考慮して、自国をアメリカやヨーロッパなどの地理的に遠く離れた国から切り離し、アジアの一員として生存することを決めたのです。
アジア人の移民受け入れ政策の活発化は、こうした経済的環境の変化に敏感に対応した成果なのです。ホーク首相そしてキーティング首相がどれほどアジアとの関係に力を入れていたかは、次のような政策内容をみると良く分かります。
- アジア諸国との貿易拡大
- 学校における第2外国語教育に日本語や中国語採用
- アジア諸国中心の国際会議開催
- テレビでアジア諸国のドキュメンタリーなどの報道増加
- アジア人留学生の受け入れ増大 など
多文化主義により、多民族社会を安定化
労働党政府がアジアに注目した結果、アジア人の移民が増え、オーストラリアは多民族国家になりました。
日本でも最近は、少しですが移民が移住するようになってきました。数の上ではオーストラリアに比べてわずかですが、いろいろな場面で日本人との間に軋轢が発生しています。例えば移民が仕事を奪うという懸念から始まり、ごみの捨て方など日常の些細なところでも、日本人と移民との間でいざこざが生まれているとの報道もされています。
ところがオーストラリアの場合は、アボリジニ、ヨーロッパ人、アジア人、アフリカ人とまったく異なる民族が共存し、民族の数も知っているだけでも50以上に上ります。ですから、日本を軸として考えると、オーストラリアの民族の状況は想像をはるかに超えるものなのですが、オーストラリアでは、人種の問題がそれほど起きていない、それは、「多文化主義」を取っているためだと考えられます。
なぜ多文化主義は効果的なのか?
多文化主義とは、一つの国の中に様々な民族が存在する場合に、それぞれの文化を尊重する政策のことです。日本から近い所ではシンガポールが一つの例です。ただシンガポールの民族は華人、マレー人、インド人と、すべてアジア系で、その意味ではまだ共通する部分もあります。
オーストラリアでは、すべての国民が、憲法に従い平等に公平に暮らすことを保証されていますが、同時に各民族が自分たちのコミュニティーを作り、自分たちの言語を話し、自分たちの教会や寺院を建てることが公に認められています。もちろん一部には人種差別主義者もいて、一方で政治家になった人もいるという状況で、人種間の対立が強まれば暴動が発生しテロになったり、嫌がらせにつながり社会が不安定になります。社会が不安定になれば、人々の経済活動が低下し、結果的に経済が停滞し働き方にも影響を与えることになります。
オーストラリアでは移民を積極的に受け入れ、早く社会の一員として生活できるように金銭面、言語面、住宅面などで手厚いサポートを提供します。
そのようにして「巣立った」移民は、今度は働き手として、また、消費者として社会や経済に貢献する立場に立っていくのです。そして結果的には、自分たちを受け入れ支援の手を差し伸べてくれたオーストラリアに対し、愛国の気持ちを持つようになるのです。
記事制作/setsukotruong
■新しい働き方はどのように生まれた?・海外編
第1回:オーストラリアの始まり、原住民と流刑地
第2回:植民地の形成、弾圧型と鎖国型の違いとは?
第3回:植民者の生活と働き方が一変したゴールドラッシュ
第4回:「白豪主義」白人の労働者を守るために法制化
第5回:オーストラリアを変革したウィットラム労働党政権
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