5年経っても学生ボランティアが増え続ける理由は (2016/6/30 東北復興新聞)
「文化」の醸成に挑む立教大学コミュニティ福祉学部
震災から5年が過ぎ企業やNPO、個人らが新たな支援の姿を模索する中、学生ならではの視点で今も熱心に活動を続ける大学がある。立教大学コミュニティ福祉学部(埼玉県新座市)は、岩手県陸前高田市や宮城県気仙沼市(大島)、福島県いわき市など7つの拠点で住民との交流を通じたコミュニティの再生支援を行っている。約5年にわたるこれまでの活動回数は延べ230回以上、参加した学生も2900人を超え、年を追う毎に減少していた学生ボランティアの登録者数も現在は一転して増加傾向にある。首都圏の大学が単独で、これほど長期的かつ組織的に活動するケースは珍しい。東日本大震災復興支援プロジェクトの初代委員長として奔走した森山佳樹教授(当時)に、5年の足跡と今後の展望を聞いた。
現地と教授、学生をつなぐコーディネーターの価値
埼玉県新座市。都心から少し離れた静かなキャンパスの一角に、立教大学コミュニティ福祉学部の「東日本大震災復興支援推進室」(以下、支援室)はある。部屋の中を覗くと、学生たちがテーブルを囲んで熱心に意見を交わしていた。そんな熱気に満ちた場所が、活動の発信源だ。そもそも支援室は、どのような経緯から生まれたのだろうか。
「被害の大きさから支援は長期化するだろうとすぐにわかった。阪神・淡路大震災のときは、4月に授業が始まると全国各地の学生ボランティアが減少。東日本でも同様に、春休みが終われば学生のボランティアは減っていくだろう。コミュニティ福祉学部は『いのちの尊厳のために』を理念とする。それが脅かされているのに何もしないわけにはいかない。組織的に支援していくためには学部単独のネットワークを活かした方がいいと考え、プロジェクト案の作成にとりかかった。その後4月13日の教授会を経て、正式にプロジェクトを立ち上げた」
鍵を握ったのは、周到なマネジメント体制を敷いたことだった。プロジェクトの旗揚げとともに、事務局として支援室を設置。現地との調整など全体をマネジメントする教育研究コーディネーター(次長)を筆頭に、アシスタント役の大学院生や経理担当の職員ら10人で構成し、10人ほどの教授と連携しながらプロジェクトを動かしていった。
「特にコーディネーターの役割は重要だった。支援活動の企画から現地住民・団体との調整、学生の募集、事前ガイダンス、イベントの企画運営、助成金の申請、広報活動などまで業務は多岐にわたる」
並行して、現地で活動する学生の募集も開始した。活動場所や内容、日程などを配信するメーリングリストへの登録を募り、学生がそこから申し込む仕組みを運用した。さらに、学部を横断して学生らが自主的に立ち上げた復興支援組織「学生支援局Three-S(スリーエス)」とも情報を共有し、他の学部からも参加者を募った。
「4月下旬に受付を開始すると、数週間のうちに200人ほどの登録があった。今ではコミュニティ福祉学部以外の学生が参加者の5割を超えている」
ただ、アルバイトで生活費などを工面する学生にとって現地を訪問することは経済的な負担が小さくない。そこで、初回は交通費の半額と宿泊費の75%、2回目以降は交通費・宿泊費ともに75%を補助するルールを採り入れた。こうした活動経費は、主に大学と学部の予算、外部の助成金で賄った。現在、職員の人件費なども含めた年間の活動資金は3000万円ほどに達する。
「2015年度実績でみると、3000万円の内訳は大学資金が60%、学部が26%、民間助成金などの学外が14%といった構成だ。大学の予算では、震災発生当時の事務方トップ(副総長)が阪神・淡路大震災の支援経験があったことからプロジェクトの趣旨を理解してもらえたことが助けになった。また外部助成金の獲得には、活動内容をホームページなどで積極的に発信することを意識した。そうして実績を積み重ねていけば、世間の理解も広がりやすいからだ」
支援に徹することが、結果的に教育になる
プロジェクトは立ち上げ当初から、「少なくとも5年」(長くて10年)と長期的な活動を見据えていた。同時に、瓦礫撤去や物資提供などの緊急支援にはあえて踏み込まず、はじめから数カ月先の支援像を練ったという。
「女子学生が多いこともあり、ガレキ撤去などの力仕事は危険性が伴う。それよりも、被災者が避難所から仮設住宅などに移った後の生活・コミュニティ支援を行う方が、学部の専門性を活かすうえでも望ましいと考えた。具体的には、8月の夏休みに学生を連れて行けるように現地の受け入れ体制を整えようと計画した」
現地のニーズ調査や受け入れ体制の整備は、支援室に関わる教授らの個人的なネットワークを糸口に探っていったという。教授が実際に現地を訪ね、自治体やNPO関係者とも情報交換。学生の安全確保の観点から公共交通機関でアクセスしやすい地域であることや、学生らが宿泊できる施設の確保などを活動実施の指標にした。
「例えば石巻市の活動拠点である高齢者介護事業所『めだかの楽園・楽校』は、私が以前から親交のあったところだ。壊滅的な被害を受けた後に近隣で事業を再開する際に、学生の定期派遣が可能か打診して実現した経緯がある。それと、私は東京都の社会福祉協議会に長く勤務していたことから東北各県の社協ともネットワークがあり、それを活かせたことも現地の情報収集やスムーズな活動につながった」
こうして7月末以降、石巻市、気仙沼市、南三陸町(宮城県)、陸前高田市で順次活動を開始した。一方、原発事故の影響が予測しづらかった福島県でも、2013年末から避難民が多く暮らすいわき市で支援に乗り出し、同様に県外に避難する住民との交流を東京都東久留米市、新宿区で実施。仮設住宅や災害公営住宅でのレクリエーション、地域行事のサポート、子どもの学習支援など、いずれも「交流」に徹したのが特徴だ。
「決して専門的ではなくでも、人と人をつなぐ接着剤のようになれる力が若い学生にはあることがわかった」
そんな学生らは、活動を通してどんなことを学んだのだろうか。また、送り出す大学・学部としてはその「教育的効果」にどれほど期待していたのだろうか。そこには、1つの物差しでは計れない十人十色の経験があったようだ。
「活動を通して意識が変わる学生もいれば、そうでないケースもある。万能薬や魔法のように期待し過ぎるのはよくない。また、決して学生の教育のために支援しているわけでもない。現場の私たちとしてむしろ、日頃から学んでいることを実践しないでどうするのだという思いが強い。そうして支援に徹することが、結果的に教育的な効果につながっていくはずだ」
活動は当初から、学生の自主性を促すための工夫も随所に織り交ぜた。現地で行う住民との交流会は学生自身が企画を練っているほか、毎回事前ガイダンスや現地宿舎などで行う「振り返りミーティング」を徹底するなど、活動の意義を反芻する機会を数多く設けているという。さらに、支援室を学生同士が悩みを気軽に相談したり、意見を共有したりできる「開かれた場」にすることによって、学生が主体的に考える時間を与えるなどしている。
同学部の卒業生は一般企業に就職するケースが大半を占める中、支援活動を経て「めだかの楽園・楽校」に就職する学生が現れたり、教員を志していた学生が就職浪人中に現地で多くの子どもたちと触れ合った経験を活かし、その後採用試験に合格した例などがあるという。他にも、対人関係の苦手だった学生が歳の離れた高齢者と自然に触れ合えるようになる光景などを、何度も目の当たりにしてきた。また、プライベートで現地を再訪する卒業生も少なくないという。
登録者が一転して増加、10年後へ「選択」と「集中」
活動は5年が過ぎ、「長くて10年」を視野に入れる段階に突入した。現在は震災当時、中学・高校生だった学生が活動の主体となっている。記憶の風化とともに学生の確保が大きな課題となりそうだが、メーリングリストの登録者数は再び増加基調に転じているという。イベントなどを通じた地道な情報発信が、実を結んでいるようだ。
「登録者数は2011年度の297人をピークに一時150人ほどにまで減少したが、14年度から盛り返し、15年度は237人にまで回復した。新入生オリエンテーションでのパンフレットの配布や、学生らによる活動報告会、現地で活動する人をゲスト講師として招く講座、さらにはイベント『復興支援フェス』などを定期的に開催している。昨年11月に開催したフェスでは、NHKの復興支援ソング『花は咲く』のプロジェクトの仕掛け人をトークゲストに招いた。関心を持ち続けてもらえるような活動を地道に続けている」
一方で、大学・学部資金や外部助成金が縮小しつつある中、活動そのものは今後「選択」と「集中」のフェーズに入っていくという。最大7カ所あった活動拠点も、将来的には3カ所に集約していく方針だ。
「相手との信頼関係ができているので、基本的にどの拠点も終息させたくないのが本音だが、人・時間・カネには限界が見えてきているのが現実だ。支援室が関わらなくても自立していけそうな拠点や、活動内容が本来の目的である『コミュニティ再生』と少しずれてきた場所から少しずつ手を引いていく。
今年度から手をつけ始めており、来年度以降は陸前高田市と気仙沼市、いわき市の3つに集約していく予定だ。陸前高田は、大学が市とサテライトキャンパスの構想を含めた連携協定を結んでおり、支援室の役割も期待されている。一方、気仙沼は地域との信頼関係が最も厚く活動も多岐にわたるため、先方にとっても学部の教育にとっても意義が大きい。いわきは原発事故もあり課題が複雑なため、継続する意義があると考えている。ただ、終息させる拠点も個々の教員のゼミ活動などで引き継ぐなどして、関係性は継続していく」
さらに10年後は、どんな姿を描いているのだろうか。その構想はまだ具体化していないが、学生が主体的に関わる必要性を指摘する。
「サークルのようなかたちで下級生や新入生へと代を重ねていかないと、現地との関係継続は担保しづらくなるだろう。当時の記憶が薄れていく中、参加者が自動的に湧いてくるわけではない。私たちは5年の節目に、『復興支援ってなんだろう?人とコミュニティによりそった5年間』(本の泉社)を出版したが、社会に対して活動の意義を積極的に伝えていくことも必要だろう。最近活動に参加した学生からは、『もっと復興が進んでいると思った』などと現地に行って初めて味わえることがあるとよく聞く。企業や行政は職務として続けられる面があるが、大学の場合は『文化』として根付かせていく必要がある」
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