障がいを隠すな、隣と握手しよう!―「小脳萎縮症」である自分を発信する盲学校職員 (2016/10/20 70seeds)
ある日体調不良になり「年のせいかな」と思っていたところ、なかなか良くならないどころかひどくなる一方。さすがに病院に行ってみたところ、告げられた病名は特定疾病……このようなことが現実に起こったとき、皆さんならどうするでしょうか?
札幌・江別・小樽で盲学校・聾学校の専門寄宿舎指導員として30年以上障がいを持つ子どもたちと向き合ってきた林芳彦さん(55歳)は、今年5月に「小脳萎縮症」と診断されました。この病気は「脊髄小脳変性症」の一種で、小脳が萎縮することによる平衡感覚の麻痺、手足の痺れなどを引き起こす病気です。
主に盲学校で「ノイズファクトリー」という音楽サークルを率いてきた林さんは7月から休職し、リハビリの傍ら積極的に講演活動を行おうとしています。その林さんに、今の状況だからこそ伝えたいことを伺いました。
盲学校の子どもたちが自信を持てる「音楽の楽しみ方」
――林さんはもともと教員志望だったんですか?
教員になろうとはまったく思ってなかったです。しゃべりに自信があったので、営業をやりたかったんですよ(笑)。アルバイトでも、結構売ってたんです。で、大学3年生のときに地元の中学校のプールの指導員をしていたんですが、子どもが可愛くなってしまって。それで普通教員免許を取るには遅すぎたので、教員免許がなくても学校に関わることができる仕事がないかと就職課に相談したところ、障がいを持つ子どもたちの寄宿舎を紹介されたのが始まりですね。
――そういうスタートの方法があるんですね。
北海道職員の試験をクリアすれば、資格がなくても大丈夫なんです。最初が旭川の聾学校、それから鷹栖の養護学校、江別の盲学校ですね。若いときにいろいろな経験をしたかったので3年ごとに転勤希望を出して……盲学校の生徒たちが可愛くなっちゃって、江別の盲学校が長くなりましたね。
――林さんは「ノイズファクトリー」という盲学校の生徒で結成したバンドの活動を進めてきましたが、この活動はいつスタートしたんですか?
江別の盲学校に異動になったときに、サークルを担当することになったのですが、生徒たちとより仲良くするために音楽を取り入れたのがきっかけです。本格的にバンドを始めたのは2000年頃ですかね。
――いきなり音楽をやるといっても、なかなか簡単ではないですよね?
そうなんですよね。目が不自由なので、どうしても技術的に追いつかないんです。どうすればいいのか悩みに悩んで取り入れたのが、MIDI(※)です。MIDIのいいところは、プロの演奏した音源を再現できることと、各パートが分離しているので不要なパートの音だけを小さくしたり消したりできることです。
※Musical Instrument Digital Interface/電子楽器間でデータを転送する際の国際的な規格
――それをどのように使ったんですか?
演奏できる子のパートは、全部音を消してしまいます。ただ、まだ演奏が弱い子のパートは、少しだけ音を残しておくんです。その音を耳でトレースすることで、その子は「自分で弾けた」と錯覚するわけです。その「錯覚」が自信につながって、最終的には自分の演奏音だけで成立できるようになるんですよ。
――曲の提供や演奏活動もしている林さんですが、音楽はもともとやっていたんですか?
YAMAHAの「EOS」(小室哲哉さんが使用し有名になったシンセサイザー)に巡り合ったのが大きかったですね。始めて2年目で、MIDIを使用したコンテストで北海道のグランプリをもらいました。
――凄いですね!
いや、凄いのは「EOS」です(笑)。プロの演奏がたくさんサンプリングされているので、それらをジョイントさせてコード進行を打ち込むだけで、曲になっちゃうんですから。
小脳が萎縮……動き続けることがリハビリになる
――林さんが体の不調を感じたのはいつ頃だったんですか?
去年の10月ですね。走ろうと思ったら、体育館でドラマのように大きく転んでしまったんです。手をつけなくて、ジャージがありえない破け方をしちゃって。何かいつもと違うなと思っていたら、次に字が書けなくなり、舌が回らなくなってきました。最初、脳神経外科に行ったら「異常なし」という診断だったんですが、セカンドオピニオンで脳神経内科に行ったら、その先生がすぐに見つけてくれました。「林さん、小脳にしわが寄ってます。萎縮してます」って。
――脳の疾患ということですか?
脊髄小脳変性症(せきずいしょうのうへんせいしょう)というのが正式な病名なんですが、いくつかの種類があって、僕の場合は小脳が萎縮しているんです。そのために、ふらついたり痺れがあったり、言語障害が出たりしています。ただ進行性だといわれているので、ひょっとしたら2~3年で言葉が明瞭ではなくなる可能性はありますね。今は、その機能の回復のためにリハビリと投薬治療をしています。
――お話していると、そんな病気を患っているようには思えません。
そう言ってもらえるのが、一番の励みになります。病気だったら寝てればいいんじゃないかと言われるのですが、話すことが舌の筋肉の運動になるんです。それでリハビリにつなげていきたいと考えて、障がいについての講演を行う講師に登録しました。休まないで動くこと、それがリハビリになっているんです。
――講演をするということは、自分自身の今を話すということになります。
僕は歩けなくなるより話せなくなる・歌えなくなる方が辛いので、講演のような形で発表することは臆さないでやっていきたいと思っています。それに、僕がノイズファクトリーで生徒たちに言ってきたことは「障がいを隠すな、出せ」ということでした。「君たちが出さなければ、周りの人たちは障がいがわからない。外出しないでずっと家にいるよりも、隣で握手する方がずっと伝わるはずだから」という話をしてきました。最初は心を抉られるかもしれないけど、障がいになった意味や人に優しくすることを知ることができるよって。それもあって、僕は病気を黙っていることができないんです。
子どもたちのためにも「障がいがあること」を隠さない
――それで、今の自分を伝えていきたいと。
「持っている者」から「持っていない者」に移ったときに、不便ではありますが不幸ではないとは言えないですよ。音楽にしても会話にしても、まだまだ伝えたいことはたくさんあったんですが、それが持っていかれてしまうわけですから。なかなか家族にも言えなかったですよ、こんな病気になってしまったことは。「何で自分が…」と車の中でひとり泣けてきたこともありました。
――それが本音ですよね。
優しいという漢字は優れていると同じ、優れている人が手伝いをすることで福祉は成り立つんです。僕は、障がいがあることを隠さず伝えていくことで気づいてくれる人はいると思いますし、僕の思いを伝えてくれる若い世代に譲っていこうと思っています。
――病気を受け入れる、ということですか。
悔しい部分はたくさんありますけどね(笑)。ただ、視覚障害のある子どもたちと接しているのだから、その子たちの前では弱音を吐けませんから。そして、この病気になってから心配してたくさんの人たちが寄って来てくれました。それがあるから、また学校に復帰しよう、音楽を作ろうって頑張っていけるんです。
◇ ◇
【取材を終えて】
林さんに初めてお会いしたのは15年前。私がラジオのディレクターとして、アマチュアミュージシャンのコンテストを担当していたときでした。たまたまそのコンテストイベントと、音の鳴る信号機のための募金を行う特別番組が同日に開催されることになり、イベントに「ノイズファクトリー」に出ていただくことになったことがきっかけです。
私がそのとき心に決めていたことは、「障がい者=特別」という感覚ではなく、「音楽を奏でる仲間の一組」として出演してもらうこと。そして迎えた当日、目が不自由というハンデをまったく感じさせない演奏・歌声でお客さんから大きな拍手を浴びたのでした。
それからもたびたび情報交換をする間柄でしたが、まさかこのような形で取材をさせていただくことになるとは思いませんでした。しかし、林さんは音楽を通じて数多くの障がいを持つ子どもたちに夢・希望を与えてきた存在です。その林さんが、簡単に病魔にやられるわけがないと信じています。
「一人でいるより、会話をしていた方が前向きになれるんですよ」と林さん。「ノイズファクトリー」から感動をもらった人間の一人として、恩返しのつもりで取材をさせていただきました。
【ライター・橋場了吾】
北海道札幌市出身・在住。同志社大学法学部政治学科卒業後、札幌テレビ放送株式会社へ入社。STVラジオのディレクターを経て株式会社アールアンドアールを創立、SAPPORO MUSIC NAKED(現 REAL MUSIC NAKED)を開設。現在までに500組以上のミュージシャンにインタビューを実施。 北海道観光マスター資格保持者、ニュース・観光サイトやコンテンツマーケティングのライティングも行う。
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