自分にできる社会貢献を模索して ~ジャーナリストから政治の世界へ再び (2016/12/1 Patriots)
とても楽しい充実した日々を過ごしています―。そう話すのは、今年の都知事選出馬が記憶に新しい上杉隆さん。ジャーナリストとして記者クラブ開放を訴えたり、都政について見つめ続けたりしてきた上杉さんですが、今年からは政治の世界へ舵を切り直しています。それはなぜなのか、また「叩かれるのは仕方ない。いつかは気づくだろう」、その言葉に込めた想いなどもお伺いしました。
ダメもとで「とりあえずやってみる」
――政治に興味を持ったきっかけについて教えてください。
きっかけになったのは大学時代。当時は、富士屋ホテル(山中湖ホテル)で住み込みで働きながら、大学に通っていました。
夜はバーの仕事を担当していたんですが、そこは政治家や芸能人などが集まる高級バー。政治家たちは夜な夜な、目の前でいろいろな話をしていました。きっと目の前にいる若者が、将来、ジャーナリストになるなんて、誰も思わなかったはず。良いも悪いも含めてすべて、この社会は政治に紐づいているんだと思い知りました。
それで「政治の裏側を全部暴いてやる!」という意気込みで、将来はジャーナリスト、もっと言えば政治記者になろう、と決めてNHKで働き始めたんです。ただNHKに入ってから分かったんですが、政治記者って、政治の裏側を暴く立場ではないんですね。
じゃあ、どうしたら政治の現場を見られるのか。NHKの先輩に聞いてみたら、3つ方法がある、と。つまり政治家になるか、政党職員になるか、政治秘書になることだって言うんですね。政治家にはなるつもりはないし、政党職員もちょっと自分のタイプには合わない。だからと言って政治家秘書は、何となくお金にダークなイメージがあって…。
でも、地元で見かけた鳩山邦夫さんの事務所だったらお金持ちみたいだから、お金に“汚い”ことをやらなくて済みそうだ、と。それで鳩山事務所の面接を受けました。
面接では鳩山邦夫さんから「君は将来、どの選挙区で出たいんだ?」と聞かれたので、「この経験を活かして、いずれまたジャーナリズムの道へ戻りたいです」と正直に答えました。すると「そんなのはスパイじゃないか!」と議員会館で怒鳴られ、面接は落ちたんです。NHKも辞めちゃったので、フリーター。知り合いのツテでカラオケボックスの店長をすることになりました。
――カラオケ店の店長をされていたなんて驚きです。
そうしたら、鳩山事務所から電話がかかってきて、「欠員が出たから来ないか?」と言うんです。面接に行ったら、当然、鳩山さんも覚えていて「君はこの前の…!」とまた怒られて。でも、選挙に出る意思がない人間は秘書にしてもらえない、と分かっていたので、今度はとりあえず「心を入れ替えてきました…」と頭を下げました。
鳩山さんには「それなら、どこの選挙区で出たいの?」と聞かれたので、とっさに大学時代のことを思い出して「山中湖村です」と答えました。鳩山さんは「山中湖村は山梨3区(当時)か…。堀内光雄先生のところだから厳しいよ。でも君も若いし、5回ぐらい落ちるつもりでやりなさい」と志をほめてくれたようでした。
でも、僕は「いえ、違うんです。山中湖村の村長になりたいんです」と言ってしまった…。鳩山さんは「村長? 夢が村長なのか? 志が低いやつだな」と驚いていましたが、最後は「まあいいか…」と採用してくれました。
それから5年間、鳩山事務所で働くことになったのですが、鳩山さんには「こいつはジャーナリスト志望で来ているんだな」ということがバレていたと思います。1999年に鳩山事務所を辞めるときには、「君はどのみちジャーナリストに戻るんだろ。がんばれよ」と言ってくれたのが忘れられません。
――そういう意味では政治との出合いは、偶然も大きかった、ということですよね?
だいたい、いつも行き当たりばったり。先に「失敗したらどうしよう」と考えたら、何もできなくなるじゃないですか。僕はダメもとで「とりあえずやってみる」という性格なので、何でもやってしまう。それが反発を食らうんですけどね。
基本的にすべて、「こうならなければいけない」というこだわりがあまりない。どちらかというと、自分がその時々でやりたいことをやっているだけ。いろいろやっている、というのはそういうことです。
それに自分自身に嘘は付きたくないんです。だから、上杉は好きじゃないけど、嘘をつくやつではないし、少なくても敵ではない、と思ってくれる人が政界には多い。大げんかをしても、10年ぐらいしてから、また仲良しになるような人もいます。
手掛けているインターネット報道番組「ニューズ・オプエド」にも、いろいろなゲストが必ず来てくれています。平日は毎日生放送で、こんな報道番組、他にはないですよ。
日本の報道のあり方を変えたかった
――設立に関わった「自由報道協会」について教えてください。
NYタイムズではジャーナリスト精神の指針になる“ルール・オブ・ザ・ロード”を教わりました。本当にお世話になったので、辞めるときに「いつか恩返しをしたい」と支局長に話したら、「恩返しはうちにするんじゃなくて、ジャーナリズムに返せ。日本の報道のあり方にはいろいろ問題もあるんだから 」と言われました。
日本では、官公庁で行われる会見などは、記者クラブに所属していない社の人や、フリーのジャーナリストは締め出されてしまいます。そんな閉鎖的な記者クラブのシステムは、僕の代で終わりにしなければいけないんです。それで色々なアプローチから記者クラブのシステムを壊して、オープンでフェアネス(公正)が担保されているシステムに変えたいと考えました。
でも記者クラブの開放をメディアで訴えたり、いろいろな人に相談したりしたんですが、なかなかうまくいきません。そんなとき、2009年に政権交代が起こりそうな予兆があったので「よし、政治の力を借りよう!」と思い立ち、民主党(当時)の幹部に、「政権交代が実現したら、記者クラブを全員に開放してくださいよ」と言い続けました。
あんまりしつこく「開放」「開放」と迫ったので、目が合えば何も言わなくても「分かった、分かった、記者クラブね」と呆れられるぐらい。それで2008年、小沢一郎さんが代表だったときの民主党党大会では、ネットメディアが参加できましたし、2009年の鳩山政権ではフリーのジャーナリストやネットメディアへの官邸や各省庁記者クラブの一部開放が実現できました。
でも、記者クラブ開放を政治権力に頼る、というのは健全な方法じゃないし、フェアではない。もっと別の方法を考えなければ、となって、日本外国特派員協会(FCCJ)のようなスタイルを自分でも立ち上げようと思いました。
記者クラブに所属しない外国人記者は記者会見に入れないんですよね。それで、自分たちで取材する「場」を作って取材対象者を呼ぼう、という逆転の発想から生まれたのがFCCJです。FCCJは公益社団法人だから、来るものを拒まず、機会の平等を掲げています。記者会見にたとえ記者クラブに所属する社の人間が来ても、FCCJは受け入れています。これってフェアなシステムですよね。
だからFCCJみたいに、自分たちで場を作って、人を呼ぶ、というスタイルを日本人として作りたいと思って自由報道協会を2011年に立ち上げました。僕が代表をしていた2年間の間に、ダライラマ法王など、世界中から150人以上呼びました。でも色々なことで叩かれましたし、上杉隆の色が出すぎることは良くないんだろうと思って、かつてNHKのヨーロッパ支局長をやっていた大貫康雄さんに代表理事をお願いして僕は代表を退きました。
都知事選は自分の目標が達成できて大満足
――都知事選の出馬はどのような思いからですか?
僕はいま48歳なんですが、60歳ぐらいまでに何か社会貢献をしたいと考えています。特に東京都に対しては恩返しをしたい思いがあって。小学校低学年のとき、父が病気をして生活が一変したんですが、生活保護をもらって、都営住宅に住まわせてもらい、都立高校にも奨学金をもらって通うことができました。東京都がなかったら、今の自分はなかったでしょう。
僕はこれまでジャーナリストとして17年ほど都政を見てきましたが、同じように長く都政に関わっている人間は限られています。だから東京に恩返しをするなら、この知識と経験を活かすのが一番早いのではないか、と考えました。
それで会社を作ったり、政治の方へのアプローチを始めたり、いろいろな模索をスタートさせていたところ、舛添前知事の辞職に伴い、急に都知事選が行われることになりました。
僕は、都の関わる課題や財源の問題が分かっています。それで自分なりのマニフェストを作って、だれかこのマニフェストで選挙に出てくれませんか、と色々なところに持っていきました。でもあまり反応がよくなかったので、最後は「もういいや、自分でやろう」と立候補したんです。
――都知事選を振り返って、思うことはありますか?
自治体の選挙って候補者が政策討議をする中で、対立候補の良いところもお互いに真似しながら、最後はだいたい一緒になるんです。最後に勝った人が、みんなの政策を代表して実行にうつしてくれるならば、2位になろうが、3位になろうがいいんだと思います。そのような選挙のあり方を市民にも、候補者にも知ってもらいたいです。
今回の知事選だって、選挙戦を進める中で、他の候補者の訴えが、だんだん僕の主張していたマニフェストの内容に似通ってきたんですね。最後には政策面でほとんど一致しました。だから投票日の前日、僕は早々に、最後の一声で勝利宣言しましたよ。だって僕の考えたマニフェストが、勝った候補者によって都庁の中に入っていくなら、僕はそれを応援する立場になる。それだけのことです。
都知事選は4位でしたが、自分が勝つより重要なのは東京がきちんと正しい方向に変わっていくこと。だから、結果には大満足しています。
――また挑戦されることもある、ということですね。
そうですね、自分が60歳になるまではまだ12年もありますから。都知事なんて、これまでの最年少当選は初代都知事だった、安井誠一郎さんの56歳。それ以外は全員60歳を超えてから当選しています。だから長い目で見ているので、今回、落選して「残念だね」と人から言われても、自分では今回がスタートだと思っているので、気にはならないんです。
都知事選への出馬は「政治の世界へ戻りましたよ」という、いわば合図。だってアメリカの大統領選を見ても、過去の都知事経験者を見ても、多くは40代で立候補するなど、いったん“デビュー”を果たしていますから。
――最後に、どのような人に政治家になってもらいたいか、ご意見をお聞かせください。
「自分はできない」とか「そういうポジションにいないから…」、というような人はやめた方がいいですね。僕だって別に政治家一家出身でもなく、何にもないところから都知事選に挑戦できています。やろうと思えば、いくらでも可能性があるわけですから。
ただ政治家になることを目標に選挙に出るのではなく、自分なりのゴールを決めて、一生懸命に自分のマニフェストを実現させる方法を考えたり、色々な気づきを周囲に与えたり。選挙の結果ばかり見るのではなく、その過程でも社会をハッピーにできることを知ってもらいたいですね。
聞き手:吉岡名保恵
提供:Patriots
- プロフィール
- 上杉隆(うえすぎ・たかし)
- 1968年、東京都出身。株式会社「NO BORDER」代表取締役社長。元衆議院議員・鳩山邦夫公設秘書。ニューヨーク・タイムズ取材記者、フリージャーナリストを経て、「ニューズ・オプエド」総合プロデューサー・アンカー。上杉隆の「続・週刊リテラシー」アンカー。公益社団法人「自由報道協会」創設者。日本ゴルフ改革会議事務局長。日本・ロシア協会事業部部長。
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