小豆島での起業までの経緯と道のり~自分の生き方を創るための選択 第1回 (2017/12/20 nomad journal)
はじめまして。城石果純(しろいしかずみ)です。私は今、瀬戸内海に浮かぶ離島、小豆島(しょうどしま)で暮らし始めて7年目。2017年4月に株式会社DaRETO(だれと)を設立しました。この連載では『自分の生き方を創るための選択~小豆島移住7年目、3児の母の起業奮闘記~』と題して、その選択の過程や結果としてやっていることを『ドタバタ起業』として約1年かけてお伝えできればと思っています。
24歳で母親になったことが、今の暮らしのきっかけに
私は愛知県名古屋市生まれ、関東の大学に進学し、全国転勤型の企業に就職。配属は、地元の名古屋で住宅情報を扱う営業でした。
社会人2年目、23歳で結婚、24歳で出産。子どもが1歳になった時、職場に復帰しました。25歳、社会人としても母親としても未熟でした。
37.5度を超えて保育所に行けない時、会社を休むのもつらい。でも子どもを祖父母に預けるのもつらい。今思えば、何もかも覚悟が足りなかったのだと思います。職場にワーキングマザーは沢山いたけれど、同世代の友人はまだ子どもはおらず、色々な事を言われる度、いちいち傷ついてマイナス思考に陥るばかり。おまけにそれを跳ね返すだけの実力もない。唯一同じ保育所にたまたま同じ年のお母さんがいて、今思い出せば一緒にヨガに行ったり夜ご飯を食べたり。そしていつも、なんでこんなにしんどいのかと話していました(笑)。
ただ、社会人2年目で母親となった事で、仕事面でとても良かった事があります。早くから時間を制限されたことで、どうすれば短時間で他の人と同じような成果が出せるのか、省ける工程はないか、工夫できる方法はないか。常にスピードを意識して考え行動する癖がつきました。それが、とても今に生きていると感じます。
子どもが子どもらしく生きられる環境を求めて小豆島へ
当時私たちが住んでいた地域は、ちょうど開発が進んでいて大型のマンションが増えていた事もあり、遊ぶ場所・遊び方・声の大きさ等で子どもに制限をさせる事が多く、ふと「環境を変える事で子どもが子どもらしく生きられるなら」と思い、移住を検討し始めました。たまたま復帰後すぐ子どもが入院したり、祖母が亡くなったりする出来事があり、夫婦で自分たちは今後どう生きていきたいのかという事を考え始めた時期でもありました。
夫婦とも瀬戸内が好きだった事もあり、土日の度に、色々な場所を見て回り、最後にたどり着いたのが小豆島。フェリーから見た海と山の自然を見た瞬間、直感的に「ここだ」と思いました。
調べていくと、学校・病院・スーパーなど生活環境も良く、若い世代がインターネットを通じて様々な情報発信をしていて、ここなら子どもを育てられると思い、 2011年9月、 次男を妊娠8か月の26歳の時、産休に入ると同時に移住してきました。
会社には「高松の部署に復帰できたら復帰したいので、籍だけ残してほしい」と大変勝手ながら頼み込み、復帰できたらしよう、できなかったらまた考えようと、その位に思っていました。ただ、いざ暮らし始めてみると家賃と保育料で10万円越えの事態に(いや、わかっていたんですけれどね…)その選択肢は無くなり、生後1ヶ月の子どもを抱えながら復帰に向けて奔走。2012年4月なら高松拠点に復帰させてもらえるとのことで、結局次男が生後4ヶ月の時に高松の観光関係の部署に復帰しました。
ちなみに心配した保育所の待機児童問題も「小豆島は待機児童ゼロですから、4月に合わせて申し込んでくれたらそれに合わせて先生を配置します。」との回答で、何回か役場に電話しても「あぁ、●●保育所を希望の城石さんね。」と、一人一人の事まで覚えて下さっていて、いい意味ですごく気が抜けたのを覚えています。
最初は高松へ船通勤。色々な意味で覚悟が決まった
高松へ船通勤を始めた頃が、いろんな意味での私の転機でした。地元を離れた事で「熱を出したら病児保育へ、仕事は休まない」が当たり前になり、仕事に対してもどう責任を果たしていくのかを考えるようになりました(そして運よく病児保育も空きがある事が多かったのです)。
散々勝手をさせてもらいましたが、良い同僚に恵まれ、覚悟ができたのだと思います。当初は、長男と次男の通った保育所が別々だった事もあり、毎日がバタバタ。特に、私に出張等が入り16時半の高速艇に乗れない時は、夫が保育所に迎えに行って、夜ごはんを食べさせお風呂に入れ、最終便で22時過ぎに帰ってきた私とバトンタッチ。また会社に戻り日付が変わった頃に帰ってくるという生活を続けました。
都会では当たり前かもしれませんが、近くに親戚がいない環境での子育ては本当に大変。私たち以外は、近くにおじいちゃん、おばあちゃんがいる事が当たり前というギャップもあったのだと思います。矛盾しますが、理想の環境を求めた小豆島で、近くに親戚がたくさんいるという自分たちが手放した環境を羨ましいとすら感じました。それでも地域の中で育てさせてもらえる事が本当にありがたく、何物にも変えられないと思っていました。
そしてDaRETO(だれと)の立ち上げ
紆余曲折を経ながらも3年間、観光関係の仕事をしましたが、小豆島に限らずどこの地域の企業でも9割のケースで「人が採用できない・育たない」という壁に直面しました。そして小豆島でも「いい人いない?」と聞かれることが多く人材不足であるのに、近所の人と話すと「仕事が無くて、子どもは外にいる」と聞く事が非常に多く、もどかしさを感じていました。
私自身は2015年に三男を出産した後、全国転勤型の企業でキャリアを積んでいくことに終止符を打つ道を選びました。様々な部署が集まるのは東京、地方にあるのは単一職種。復帰時に転勤すれば昇格できる、転勤できないなら降格となるし今後昇進する事はない、との話にすごく悩みました。会社の言う事も、理解できたし納得できたんです。でも、すごく悔しかった。会社に残ったほうが、降格したとしても収入面では安定する。ただ、そもそも私が目指すのはそういう生き方ではない。いつも自分がしたい事に挑戦していたいし、ワクワクしていたい。夜も眠れず心身ともに疲れ果て、何も考えられなくなり夫とも言い争いになる中、たまたま入院中だった三男の病院のベッドから抜け出して、上司に退職の意思を伝えました。
そういうわけで、全く華やかな起業ではありませんでした。まずは会社を辞めてすぐ、2016年4月に個人事業主として独立。幸い、いくつかお声がけをいただき、すぐ仕事をいただく事ができました。その活動を通じて、小豆島では若い人が少ないので移住者を多く雇用しているものの、育成のスキームがあまり無いので離職してしまい、離職イコール離島につながっているという状況がある事に気付きました。その上で、小豆島の多くの経営者が、地域で地域の若手を育てていきたいと思っている事を知りました。そして2017年4月、たどり着いたのが“知の地産地消”をコンセプトにした「しまの塾」を行うための株式会社DaRETO(だれと)の立ち上げです(「知の地産地消」や「しまの塾」などDaRETO(だれと)の事業内容については次回取り上げます)。
DaRETO(だれと)を通じて、この島にあったらいいなと思うものを表現したい
いつも色々あるけれど、より良いと思う道を選択してきたら、たまたま今にたどり着きました。正直、会社を大きくしていきたいとか、沢山稼ぎたいとか、そういう事を思っているわけではないんです。場所がたまたま株式会社だったので、誤解されることも多いんですが、DaRETO(だれと)を通じて私は、あったらいいなと思うものを表現したい。今は人材育成を主に、地域に必要とされるものを作っていきたいと考えています。夫は私よりも早く会社員を辞めて、今は移動販売のピザ屋をやっていて、子どもが小さな今は、家族が揃って夜ご飯を食べるとか、一緒に散歩するとか、そういう時間も大切にしたい。最近は、私たちが無理をしていない分、子どもたちも伸び伸びしています。そんなDaRETOについて、本連載では赤裸々に語っていきます。お付き合いくださいませ!
◇ ◇
専門家:城石 果純
株式会社DaRETO代表取締役。1984年愛知県生まれ。小豆島在住、リクルート出身の3児の母。
24歳で母親になり「自然がある場所で子育てしたい」と思うようになり、2011年に小豆島に家族で移住。3年間高松への船通勤を経て、2016年個人事業主として独立。2017年株式会社DaRETOを起業。現在は、しまの塾・企業研修・各種ワークショップ開催を通し、地域の課題を地域で解決するスキーム作り「知の地産地消」に取り組んでいる。
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