戦争が祖父に与えたもの―夢を抱き満州へ旅立った少年の記憶を辿る (2017/8/15 70seeds)
昨年から今年の春にかけて公開され、多くの話題を集めた映画、「この世界の片隅に」。戦争という「大きな物語」に埋もれ、これまで語られてこなかった「本当の意味での日常」を描いたこの作品は、多くの人たちに発見、共感、感動を与えました。
「戦争の知らなかったを伝える」メディアとしてスタートした70seedsも「この世界の片隅に」の監督である片渕須直監督にインタビューを行いました。私たち編集部は、これからも人びとの「日常」という「小さな物語」を伝えていくメディアでありたいと思っています。
今回ご紹介するのは、戦争という「大きな物語」に飲まれ、翻弄されながらこの世界の片隅で生き続けてきた、1人の男性の物語。
長野県で丸山自動車を営む、丸山竹嘉さん。御年89歳。私、編集部インターン丸山の祖父です。14歳のころ満蒙青少年開拓義勇軍の一員として、満州に渡った経験を持つ祖父。今回はそんな「おじいちゃん」の戦争体験記をお届けします。
◇ ◇
こんにちは!インターン生の丸山です。
突然ですが、今回は僕の祖父の戦争体験についての記事をお届けしたいと思っています。
私の祖父、丸山竹嘉は現在89歳(!)。
故郷である長野県で約50年前、丸山自動車という自動車整備工場を設立し、祖母と私の父、その妹の4人家族を養ってきました。丸山自動車の経営は現在は父が担っています。
祖父の家にはたくさんおもちゃがあって、お菓子があって、お小遣いがもらえて…とても楽しい記憶がたくさんあるのですが、そんな記憶の一つに「おじいちゃんの戦争の話」がありました。おじいちゃんの家に行くたびに、戦時中、満州に行った話をよくしていたのです。
僕にはそれが疑問でした。
「80年以上生きてきて、戦争とはいえ、10代の頃の話ばっかするなんて、どれだけ戦争が記憶の中にこびりついているんだろう。もっと会社を立ち上げたときの話とかしないのかなぁ?」
一体満州でどんな経験をしてきたんだろう?
疑問に思った割に祖父の話にはあまり耳を貸そうとしていませんでした。戦争の話はなんだかつまらなそうで。おじいちゃん、ゴメン。
今回、編集長の岡山から「70seedsの原点に戻る、戦争を題材とした記事を載せたい。」という提案を聞いたとき、祖父の顔がフッと浮かびました。
普段は聞き流している祖父の戦争体験を、しっかり聞いてみよう。
ということで、実家に緊急帰省。祖父にインタビューしてきました。
「戦争」という「大きな物語」の中で、時代に、政府に流され、翻弄された一人の少年の物語です。
親の反対を押し切り、14歳で満州で
――おじいちゃんは昭和3年生まれだから…戦争が始まった昭和16年は12,3歳か。戦争が始まったときはどんな感じだったの?
そうそう。その時は「始まったの?」っていう感じで、自分が満州に行くなんてことは全然考えてなかったんだよな。
――そうだったんだ。
そもそも、おれは戦争が始まったころから「日本は勝てない」って親父からずっと言われててさ。
――いきなりびっくり情報!それはまたどうして?
俺のおやじが新聞記者だったんだけど、日本が負けることをわかってて、俺もそういうことになんとなく勘づいてたんだよな。だから、親父は俺が満州に行くことにはずっと反対していたよ。
――そうだったんだ…それでもおじいちゃんが満州に行こうと思ったのはどうしてなの?
小学生のころ、親父が新聞記者で、農家じゃなかったことでいじめられてたんだよ。
――農家じゃないといじめられるの?
食べ物を自給できないっていうことで、「非農家だ」って周りの同級生からは言われて、いじめられてた。それが悔しくて、子供のころは「いつかは世界一の百姓になる」っていうのが夢だったんだ。そんなさなかに、学校の先生から「お前そんなに百姓になりたけりゃ満州に行けばたくさんの土地がもらえるぞ」って言われて、「じゃあ行ってやろう」って腹決めて親父を説得して、満州に行くことを決めたんだ。
――さっきおじいちゃんは「日本が負けることに勘づいてた」って言ってたけど、満州に行くことに迷いはなかったの?
負けるかもしれないことは思ってたけど、満州まで取られるとは思ってなかったんだよなぁ。
――なるほど。それもそうか…当時、満州に行くことは誉高いことだったの?
周りからは「立派だね」とか言ってもらえて、テレビドラマであるような見送られ方をしたよ。家族とも写真を撮って…いま思うと、親は一生の別れだと思ってたんじゃないかな。俺はちっとも感激してなかったけど(笑)
「騙された」満州での生活
14歳で家を出て、満蒙青少年開拓義勇軍に入隊したおじいちゃん。福井県の内原訓練所での半年の訓練を経て、新潟港から韓国(当時は日本の植民地)の羅津(らしん)に上陸。そこから列車で3日かけて、開拓地である満州の嫩江(のんこう)にたどり着きます。
――満州に来てからはどうだったの?
一番最初に満州に来た時、茶碗の中に赤いものが入ってて、「赤飯が入ってる!」と喜んで茶碗を覗いたらコーリャンだったんだよ(笑)。
生活が始まってからの食事も1日2食、中身もジャガイモに米が少しくっついてるみたいな感じでさ。14歳の一番育ち盛りの時期だったから本当につらかった。みんな腹空かしてて、畑の作物を生で食べたりとかしてたよ。あと、現地の中国人と物々交換で菓子とかパンとか貰うことができたんだけど、それがバレて本部に連れてこられて、薪を一面に敷いたうえで正座させられたりしたこともあったなぁ。たらふく食べられると思って行っただけに「騙された」と思ったよ。
――そうなんだ…
あと満州はシベリアの隣だからとにかく寒い。マイナス40度なんてザラにあったからね。
――マイナス40度!?
そんな中で歩哨(倉庫の門番)をするんだけど、これが本当に寒い。銃を持っていると、凍って銃と手がくっついちゃうんだよ。
――うおおお…
それに冬に困りものなのがトイレでさ。ボットン便所なんだけど、冬は便が凍るから中に入ってつるはしで氷を割るんだよな。
――ウ○コの氷をか…
そうそう。それは別にいいんだけど、作業が終わって温かい部屋に戻ると、服にくっついてる凍った便が溶けてな(笑)
――うわあああ、それ嫌なやつ!!
なんというか、たとえようのない気持ちになったよ(笑)。
――そんな厳しい環境の中でも、おじいちゃんは「大百姓になる」っていう夢は変わらずに持ち続けてたの?
冬は散々なことが多い反面、5月くらいになって青々としてきたころに畑を耕して種を植えるだろ。そうすると肥料なんかなくてもびっくりするくらいすくすく育つんだよな。
――土壌はめちゃめちゃよかったんだね
そう。なにも手を加えなくても焼畑農業みたいに土が真っ黒でさ。ここなら大きな百姓になれるっていう気持ちは変わらなかったよ。
終戦直前、奉天へ。
満州で順調(?)に百姓になるべく生活していたおじいちゃんでしたが、終戦のちょうど1カ月前の昭和20年7月15日、突然奉天(奉天)の自動車工場への異動を命じられます。
そして、このたった1カ月の自動車工場での経験が、長野県で丸山自動車を創業するきっかけになります。
――おじいちゃんは満州で終戦を迎えた訳じゃなかったんだね。
うん。結局、満州にいたのは2年くらいで、「大百姓になる」っていう夢もそれで終わっちゃうんだよな。自動車工場でも、勉強を終えてこれから実地に向かうぞって時に工場の一角に全員呼び出されて、玉音放送を聞かされた後に「明日からもう来なくていいから」っていきなり言われてさ。
――おお、それっていきなり無職になっちゃったってことか…
無職どころか寮からも追い出されたから、浮浪児、いまで言うホームレスだな。
――その時、おじいちゃんは何歳?
16歳だな。
――壮絶すぎる…その後、おじいちゃんはどうしようと思ったの?
とにかく仕事無くなっちゃったんだから、まず生きるために必死に仕事を探すって言うことを考えてたよ。日本に帰るとか、百姓の夢がどうとか、そんなこと考えてる余裕はなかったなぁ。
終戦直後、いきなり工場を追い出され苦力のような生活をしていたというおじいちゃんでしたが、そんなさなか、機関区(※1)の助役をしていた中国人の男性リュウさんに誘われ、機関庫(※2)のボイラー炊きの仕事に就きます。
※1 機関区・・・動力車の運転、運用、整備、保守にあたる鉄道の現場機関のこと。
※2 機関庫・・・機関車をとめる車庫
――戦後とはいえ、中国人が日本人に、ましてや浮浪児に手を差し伸べてくれるっていうのはなんだか意外。
当時の奉天の人たちは親日の人が多かったし、その鉄道会社の重役さんが鹿児島工業専門学校を出てた人で、良くしてくれたんだよな。「そんなところにいないで、俺が案内するからボイラー炊きに務めないか?」って。そのまま社員になったよ。
――それはありがたいね。
うん。今でも、本当に幸せだったなぁと思うよ。
ボイラー炊きの主な仕事は冬の期間、機関庫内の機関車が凍ってしまわないように、ボイラーをフル稼働し、機関庫内を常に暖かくしておくこと。そんな仕事を続けている中、おじいちゃんに最大のピンチが訪れます。
石炭のことを良く知らないでこの仕事をしてたから、ある日無煙炭でボイラーを炊いてみたら、蒸気が上がらなくて機関庫の温度を下げて、機関庫の中を凍らしちゃったことがあってね。その時に機関区を仕切ってたソ連兵から銃殺を言い渡されたんだ。
――えっ…いきなり過ぎない?
当時はなんでも銃殺にしちゃうんだよな(笑)
――笑えないよ…
でも、俺を雇ってくれたリュウさんが中に入って助けてくれて、なんとか命拾いをしたよ。リュウさんには自宅に呼んでもらってご飯を頂いたり、本当に良くしてもらったんだ。命の恩人だね。
――そうなんだ…
その後、おじいちゃんは引き続き奉天の満鉄機関区で働き続け、2年間かけて現地にいる日本人の大半を送り届けてから、やっと日本に帰ってきます。
――終戦後すぐに日本に帰って来れたわけじゃなかったんだね。
そうそう。結局「大百姓になる」っていう夢破れて帰ってきたから、恥ずかしくて表の玄関から家に入れなかったよ(笑)
――いや絶対温かく迎えてくれると思うんだけど、そうなのか、そういうもんなのか…
今、おじいちゃんが思ってること
さて、ここからはダイジェスト。
終戦後、日本に帰ってきたおじいちゃんは土方や国鉄など職を転々とします。そんな中、転機が訪れたのはおじいちゃんの父さん、私の曾祖父の言葉。おじいちゃんの終戦直前の自動車工場の経験に目をつけ、「自動車工場で働いてみないか」と提案します。そして、その提案に乗ったおじいちゃんは地元の自動車整備工場に2年間勤務。整備士の資格を獲得します。
その後、東京で10年、埼玉で7年間自動車修理工場で働いたおじいちゃんは、両親の介護のために帰省。長野県で丸山自動車を開業します。
今も丸山自動車は存在しています。2代目として父が後を継ぎ、病気の手術を機におじいちゃんは引退。現在は息子の仕事ぶりを見守っています。
――こうやって話すのは一瞬だけど、おじいちゃんがどれほど壮絶な青春時代を過ごしてきたのか、少しわかったよ…ここまでいろいろ聞いてきたけど、最後に、88年間生きてきて、おじいちゃんが今どんなことを感じてるのか教えてください。
そうだなぁ…。若いころは国に騙されて満州に行って、そのあとも散々国に振り回されて、自分の人生を選ぶことなんてできなかった。でも、たまたま行った自動車工場での経験がつながって、その縁でこうやって自分の工場ができて、その上88まで生きてこれた。ほんとうに、俺にしてみりゃ、これ以上のことはねぇ。
ということで、私の祖父のインタビュー、いかがでしたでしょうか。
祖父は14歳で満州に行ってから、そこからは自分で判断して行動することはできず、周りの大人に、国に左右された青春時代を送ってきました。
その孫の私は現在19歳。当時とは違い、考える時間は腐るほどあります。自分の人生を選べる、悩めることがどれだけありがたいことなのか。その価値を理解し、時間を大切に、これから自分の人生と向き合っていこうと思いました。
◇ ◇
さて、今はお盆休みの最中、帰省されている方も多いのではないでしょうか。
ぜひおじいちゃん、おばあちゃんの話を聞いてみてください。
私は、聞いてみて本当によかったです。
最後におじいちゃん、急に来た孫のインタビューに応じてくれて、本当にありがとう!!
- WRITER
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丸山 彬
長野から上京してきた大学2年生。自分の「面白そう!」「会ってみたい!」な感覚をたよりにジャンルフリーにあっち行ったりこっち行ったり。学生、若者の「ハートに火をつける」手法を模索中。
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