日本人の知らない宗教の世界―イスラム法学者・中田考インタビュー (2017/9/20 70seeds)
無宗教。いまや日本人を表す大きな要素の1つとして語られるワードです。
普段何気なく使っている人も多いこの言葉。しかし、さまざまな宗教への無理解の言い訳のように感じる瞬間もあるように感じます。
これを読んでいる(おそらく日本人の)あなたは「宗教」について考えたことがあるでしょうか?今日はそんなお話。
インタビューしたのは日本人のイスラーム学者でありムスリムの中田考さん(ムスリム名はハサン)。大学在学中にイスラーム教と出会い、入信。現在まで多方面で活動を続けています。
今回の70seedsでは中田さんの「宗教との出会い」と、「宗教を信じることでどんな救いがあるのか」この2点を聞きました。「宗教」に対する考え方が今日、変わるかもしれません。
ムスリムになった理由は「合理的だから」
――まず、中田先生がムスリムになる前の話を聞かせてください。子供のころはどんな子供だったんですか?
勉強は得意でしたが、授業によく口出しをしていたりしていて教師に嫌われているような、生意気な児童でしたね。というか、学校が嫌いで、不登校のような状態でしたね。
――学校のどういったところが嫌いだったんでしょうか。
何もかもが(笑)。意味もないのにルールに従わされているという状況が嫌いなので、学校というシステムそのものが嫌いだったという感じでしょうか。その後灘高にいくんですが、そこに行ったのは偏差値とかではなく校風が自由だったということが大きいですね。特に当時としては大変珍しかったのですが、制服がなかったのが魅力でした。
――学校に行っていない間はどんなことをしていたんですか?
親からはテレビをあまり見せてもらえなかったので、本をたくさん読んでいましたね。
――その後、東京大学に進学します。
そうですね。1浪していますが、灘高から東大に行くのはいわば当たり前なので、東大で何をしようとか、何を学びに行こうとか、そういったことは何も考えていませんでした。
――先生が学生の頃の日本は経済的にとても元気で、「働く」ことに関して希望が持てていたんじゃないかなと思うのですが、そんな中にあっても仕事に就こうとは思わなかったんですか?
無かったですね。私の父は会社の経営者だったんですが、そのことにも何の興味も持ちませんでした。確かに日本は元気だったかもしれませんが、考えていませんでした。
――その当時から宗教に関する関心があったんですか?
ありました。両親は非宗教的な普通の日本人でしたが、英語や西洋文化に触れて欲しかったのか子供のころから教会に行かされていたこともあって、神の存在は信じていましたから。いずれ自分も信仰する宗教を持とうとも考えていましたので、大学一年生の時は東大の聖書研究会に所属し宗教について勉強していました。
――そんな中、イスラーム教と出会ったのはどんなきっかけがあったんでしょうか。
東大での進学振り分けの時にたまたまイスラム学科が新設されたんです。東大には宗教学といったものはあるんですが、キリスト教学といったような一つの宗教について究めるものがイスラム教しかなかったので、せっかくならばイスラム学科に入ろうと、そう思いました。
――そこで初めてイスラーム教と出会ったんですね。
そうですね。あっ、時間なのでマグリブの礼拝してもよろしいでしょうか?
――!?……わかりました。
(3分後)はい。ありがとうございます。質問はなんでしたっけ。
――イスラーム教の勉強をすることと、入信するということは違うことのように思えるのですが……という質問です。
なるほど。先ほども言ったように神の存在は信じていたのですが、キリスト教に関しては、やればやるほど信じる気が失せていったことが要因としてあります。その点イスラームはシンプルで分かりやすい。基本、礼拝していればいいというテンションが、私の性に合っているなぁと。
――非常に合理的ですね。
合理的。そうですね。学校もキリスト教も合理性がなく、根拠がないのに従うというものに辟易(へきえき)していたということがありますから、始めて根拠のあるものに出会えたということですね。
現世は遊び
――中田先生は以前お会いした際に「現世は遊びだ」と話していました。すごく印象的だったのですが、今どんな気持ちで生きているんですか?
現世などたかが遊び戯れ、失敗してもただ死ぬだけのこと、深刻になるなど愚かなこと。遊びは楽しめばよい。遊びは遊びだからこそ真剣に遊ばないと楽しめない。まず、日本人が学ぶべきはそこからだ。 遊びをせんとや生れけむ、戯れせんとや生れけん 〈中田考氏のツイートより〉
単なる暇つぶしですね。余生ぐらいに思って生きています。クルアーン(イスラーム教の聖典)の中にある言葉に由来しているんですが、現世は遊びであり、来世こそが本当の生なんです。前半だけ取られると少しニュアンスが変わってきますが。
私自身、家族がいなくなって責任がなくなってからそういった気持ちが大きくなりました。実際、今なんて早く死にたいんですよ。単純に興味がなくなったので(笑)
――興味がなくなったというのは?
学問に対する探究心もそうですし、日本にいると虚しくなるんです。自分の中にはカリフ制再興という理想があるわけなんですが、17億人ムスリムがいる中でカリフ制のことを考えてくれている人なんて殆どいないわけなんです。大学で教えていても誰も真面目に聞いてくれませんしね。説明のしようがないんです。
――話していると、人間に対する諦めのようなものを感じます。
そうですね。それはあるかもしれません。でもここまでさんざん言ってきましたが、日本は娯楽も充実しているし、ドラマとか漫画もよく見ますし、自殺は許されていないので生きていなければいけない以上、相対的により不愉快でない、つまらなくない生き方をしようと思うと、けっこうそれなりに楽しく過ごせてはいるんですけどね(笑)。
宗教に救いはあるか
――2016年の統計によると、日本では1日60人もの人が自殺をしています。素朴な疑問なんですが、そんな中にあって、宗教がもたらす救いってあるんでしょうか。
どうですかね。そもそも「救い」という概念自体がイスラム的には来世での救いなのでね(笑)。この世では別に救われなくたっていいじゃないと思っているんですが。
――でも多くの日本人はこの世で救われたいんじゃないかな、と思うのですが……
身も蓋もないことかもしれないんだけど、救われたってどうせ死んじゃうんでしょう?(笑)。なんというか、自殺する人はどうして苦しいかというと、現世に存在しているリアリティーを直視していない、できないようになってしまうから苦しいんです。
その点イスラーム的な考えで来世が存在している事を信じると、現世のリアリティーを直視できることができるじゃないですか。「駄目だったら死んじゃってもいいや。来世あるし」と。
――なるほど。
宗教に救いがあるとすれば、その一点に限るんじゃないでしょうか。どうしようもない現実の、身も蓋もない事実と向き合い、耐えることができるっていうことだと思うんですよね。
日本人が気づかない「日本教」とは
――日本人は長らく無宗教であるといわれ続けてきました。遠藤周作の『沈黙』の中でも日本について宗教の根付かない、「すべての根を腐らせていく沼だ」という風に語っています。宗教が根付かないというのは、日本人のどういう性質があるんだと先生は考えますか?
そもそも根付かないという考え方そのものが間違っているように思います。これは「宗教とはなにか?」という問いにもつながってくるんですが…山本七平ってご存知ですか?
――いえ、知らないです。
山本七平の『日本人とユダヤ人』という本がありまして。それはユダヤ人だという仮想の立場から日本人のことを描いたという作品なんですが、その中で“日本教”という概念を出すんですね。これ、大学生は読んでおいた方がいいですよ。
――わかりました(笑)
そして、日本教の拝む対象は人間であるとその中で言っているんですよね。神ではなく人間、人間教ですね。それこそが普遍的であり正しいと完全に思い込んでいる。
日本人はこれを宗教だと自覚せず、「日本人は宗教なんて無くても平気だ」と言っていますが、実はこれは神ではなく人間を信じてしまっているということなんです。「人間なんて話し合えば分かり合える」っていうのもその典型ですよね。問題はそこで言う「人間」というものが、普遍的な概念だと、そのことを意識すらできないほどに強く信じこんでいて、それが実は日本人にしか通用しない特殊日本的な人間観であることに気づいていないことです。
――なるほど……
だから日本人は無宗教なのではなくて、日本教といった宗教を信じていると思った方が考えやすいと私は思っています。「人間教」自体を進んでいると考える人もいるのでしょうが、逆に自意識のよりどころがないという点で、最悪の形になってしまっていると思いますけどね。
まぁそれでも日本はシリアやエジプトに比べたら何倍も安全ですし、何の不満もないんですけどね(笑)。残りあとどれくらいかはわかりませんが、楽しくやれればなあと思っていますよ。
◇ ◇
【編集後記】
「宗教との出会い」と「宗教による救い」というかねてから中田考先生に対して個人的に疑問だった2点を中心に行ったインタビュー。中田さんとはもともと、取材場所のイベントバーエデンで少しだけお会いしたことがあっただけだったが、今回なんとかインタビュー取材に応じていただけました。
日本人に宗教は根付かない「沼」。「人間教」の話を聞いてその原因を知ることができたと思います。「沼」と一言に言うと暗いイメージがありますが、1人1人が「何を信じるべきか」を考える余白が存在していると考えることもできます。思考停止せずに、自分だけの宗教を作り上げていきたいと考える私にとって、「日本教」という考えは、そのヒントになり得るような気がしました。
- WRITER
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丸山 彬
長野から上京してきた大学2年生。自分の「面白そう!」「会ってみたい!」な感覚をたよりにジャンルフリーにあっち行ったりこっち行ったり。学生、若者の「ハートに火をつける」手法を模索中。