限りない理想への挑戦――対話と現場主義で川崎を、日本を変えていく! (2016/5/31 Patriots)
川崎を一歩先へ、もっと先へ――。2013年に就任した川崎市の福田紀彦市長は、市民とともに最幸の川崎をつくる、という理念を掲げ、日々、さまざまな課題に立ち向かっています。政治の道を志したきっかけや、市政運営で心がけていることなどについてお伺いしました。
アメリカでの日々が私を政治へ導いてくれた
――政治を志したきっかけについて教えてください。
中学校を卒業後、父の転勤でアメリカへ引っ越し、高校と大学時代を過ごしました。アメリカでは市民が政治について真剣に語り合うのは珍しくなく、学校に行っても先生やクラスメートたちが選挙で応援するのは共和党か、民主党か、などいつも議論しています。日本では政治の悪いところばかりが報道され、政治に無関心な人が多かったので大きなカルチャーショックを受けました。
市民ひとりひとりの社会に対しての関心も高く、たとえば高校生のころ、ある道路に「信号を付けなければ危険だ」と友人が主張し、クラスメートや周囲の大人も巻き込んで活動を始めました。一人の高校生の始めた活動が街中に広がり、最終的には市長のところにまで話が行って実際に信号が付くわけです。そういう姿を横で見ていて、“草の根の民主主義”ってすごいな、と素直に感動しましたね。
そのような時期に家族旅行でワシントンDCに行き、ケネディー大統領の墓地などを訪ねるうちに、自分の中で政治家を志す夢がどんどん湧いてきました。「これからどう生きるんだ?」と自問自答していた自分に、「政治」という道がスパッとはまったような感覚です。アメリカに行かなければ、政治の世界に飛び込むことはなかったし、今ここにいることもなかったでしょう。
しかし政治を目指そうと思い立ったものの、政治家に地縁も血縁もなく、両親にも良い顔はされません。それでも大学では政治学を学び、いつか日本に帰って政治家になろうと決意していました。
大学3年生になる前、夏休みの長期休暇を利用して帰国し、政治家の手伝いをしようと考えましたが受け入れ先のあてはありません。そこで小・中とお世話になったボーイスカウトのリーダーに相談したら、当時、県議会議員だった松沢成文さんを紹介していただきました。
帰国したらちょうど松沢さんが衆議院議員選挙に出るというので、選挙運動を手伝うことになって。選挙が終わってからも事務所まわりを手伝ったのですが、とても有意義な時間だったんですね。その後の進路を迷っていたら、卒業を目前にしたころ松沢さんから国際電話がかかってきて「秘書にならないか」とお誘いいただきました。びっくりしましたが、一日悩んで秘書として政治の世界に入っていく道を選びました。
市長という立場から日本の政治を変えていく
――県議を経て市長を目指された理由はどうしてですか?
最初はあくまで国政を目指していました。県議会議員になったときもそうです。それは、アメリカで感じ、政治の世界へ入るきっかけとなったのが「日本を政治で良くしていきたい」という想いだったからです。
ところが県議会議員をやっているうちに、“かゆいところをかけない”みたいなもどかしさを感じるようになりました。そういうときに「マニフェスト大賞」を手伝うようになって、全国の地方自治体でエネルギッシュに活動している方たちとたくさん出会いました。彼らの地方での活動ぶりに触れていると、国政を目指していた自分の考え方が大きく変わっていきました。
自分は社会に対しもっと直接的に、スピーディーに手を入れたい。踏み込める政治をしたい。そう考えたら「やっぱり市長だな」と。特に川崎市は人口が147万人もある政令指定都市です。この国を政治というツールを使ってよくしようと考えたとき、その目標を山にたとえたら登山口はいくつもあって、ルートはそれぞれ違います。川崎で良いモデルを創って、そのノウハウを全国に広げていく、というアプローチは、日本を変えていく道として非常に良いものではないかと思いました。
37歳のときに市長選に初挑戦したとき、もちろん周囲からは「やめろ」と説得されました。それでも県議会議員に最年少で当選したこともあり、市長選にも勢いで突っ込んでしまったんですね。結果、次点で敗北し、周囲にいた人たちもサーっといなくなりました。
でも、ごく少数ですが私を信じてくれる人、支えてくれる人たちがいて、負けた次の日からまた4年後を目指そうと思いました。ここでも当然、ほとんどの人からは反対されました。次負けたらもう政治家の道はない、復活はない。周囲からは「馬鹿だな」と言われましたが、どれだけ追い込まれても市長になって目指したいものがあったのです。
「答えは現場にある」…対話重視・現場主義を徹底
――市長としてどのような想いで日々、お仕事をされていますか?
重要なのは、いま社会変革を起こさなければ、福祉も教育も、何もかもが総崩れになる、ということです。それはただ仕組みや制度を変えれば良い、というものではありません。もっと人々の意識そのものに深く入り込んで、変革を起こす必要を感じています。
たとえば、いま「地域包括ケアシステム」の構築に取り組んでいますが、分断されている地域の絆を再びつなぎ合わせていくような大変な作業です。国政での大きな議論も大事ですが、生活に密着し、何が一番大切か、実情に合った形でもう一回、地域を組み立てなおさなければいけません。
そういった課題解決のために対話を重視し、現場主義を徹底しています。就任して3年目になりますが、各区を回って地域の人と対話する「車座集会」は30回以上開催してきました。市民のお話をお伺いしているとさまざまな意見があり、やはり実際に見て、聞かないと分からないことは本当に多い。毎日が発見、驚きの連続で、新しい政策の種はいっぱいあります。
答えは絶対、現場にある。予算的に厳しい話であっても、丁寧に話を聞いて解決の糸口を探っていく。結局のところ、どれだけみんなを巻き込めるか、参加意識を持ってもらえるか、といったところだと思います。
そういう意味では、各分野での専門的な知識はもちろんですが、コーディネート能力が非常に重要です。いい答えを持っている人たちをうまくつなぎ合わせられるかどうか、にかかっている、と言えるでしょう。
「限りない理想への挑戦」を忘れない
――政治家として大事にしている志や想いがあれば教えてください。
「限りない理想への挑戦」という言葉はずっと意識しています。普段、どうしても日々の仕事に追われがちですが、ただデイリーワークをこなすだけではなく、やはりその延長線上には目指すべき理想があるべきです。時には立ち止まって、目指す“軸”がずれていないか確認する必要もあるでしょう。
もちろん理想ばかり追っていてはダメで、地に足が付いた活動でなければいけません。私の場合は、「本当に市民のためになるのか、ならないのか」というのが大事な軸。自分の仕事が理想の社会実現につながっているのか、次の世代のためになっているのか、ということは価値判断の大きな基準です。実際には私が下した判断の結果で苦しむ人もいるでしょう。だから本当に毎日、何十回と迷って、悩んでいますよ。
どの職業でも言えることですが、自分の仕事にプライドを持ち、多くの人から「ありがとう」と言ってもらえる仕事ができるかどうか…。特に政治の仕事はやってもやっても当たり前だと思われ、評価されないかもしれませんが、とにかくやり続けるしかないんです。
「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、硬い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である」といった社会学者・マックス ヴェーバーの言葉は嘘じゃないと思います。その作業なくして尊敬はされないし、若い人にも魅力的だと思ってもらえないでしょう。
チェンジメーカーになる若者を求めたい
――どのような若者に政治を目指してほしいと思いますか?
悪いイメージが付きまとう政治家をカッコいいと思ってもらうために、まず今いる政治家が私を含め相当頑張らなければいけません。政治の分野でチェンジメーカーになろう、という若者がいたらぜひチャレンジしてほしいですね。
1993年ごろの新党ブームのときは選挙事務所に学生のボランティアがたくさんいました。あれから20年以上たって、政治を志す若者は少なくなったのは本当に大きな損失です。私の言うことが「古い」、「化石だ」なんて言う若者が早く現れて、乗り越えていってくれないかと期待しています。
政治は生活の中にあります。頭でっかちに考えるのではなく、現場に出て感じなければ分からないことだらけなので、若いうちはぜひ足で稼ぐような仕事をしてください。私も学校などで子どもたちと直接、話をして、早いうちから政治について考えてもらうきっかけを増やしていきたいと思っています。
聞き手:吉岡名保恵
提供:Patriots
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