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時間は何故、ときに速く、ときに遅く進むのか  ニュースフィア 2017年2月6日

 人は生まれながらに時間を理解しているわけではない。赤子はその行動を外界に合わせ適合することを学ぶ必要がある。それができるようになるまで赤子から目を離すことができないため、親のスケジュールは自ずと赤子中心に回ることになる。また、旅をすると困惑することがある。自分の日常と時間の過ごし方が異なる場所を訪れたときは、特にそうだ(たとえば、スペインの午後のシエスタなど)。

 しかし、私たちは皆、赤子を含めて、標準時間単位系(分、時、曜日)に適応することで最終的には時間に対応できるようになる。

 この単位系はもちろん有効なのだが、それでも私たちの時間の経過に対する感覚、つまり時間の経過を速く感じたり遅く感じたりする度合いには大きなブレがある。わずか数分の時間が「永遠に続く」ように感じられたり(たとえば信号が青に変わるのを待っているときなど)、あるいはほとんど1年が過ぎ去っていたことに気が付いて愕然とする、といったことがある。

時計

 筆者は、この時の経過の感じ方の違いというテーマを30年以上にわたって追い続けてきた。このテーマに魅入られたのは、イリノイ大学の大学院にいる頃だった。ある日、私の担当教授がNFLのクォーターバックにインタビューしている様子を見せてくれた。この選手はゲーム中、他のプレイヤーのすべてがスローモーションで動いているように感じることが度々ある、と説明していたのだ。

 なぜそんな歪みが生じるのか?何がそうさせるのだろう?

◆時間がゆっくり進むとき: パラドックス

 筆者は、時間がゆっくりと流れているように感じられた事例をさまざまな階層の人々から何百となく集めた。それらの状況はきわめて多様だが、大きく6つのカテゴリーに分類することができる。

 まず、拷問のような強烈な苦痛や、性的恍惚感のような激しい悦楽(楽しんでいるからと言って、必ずしも時間が速く進むわけではない)。

 次いで、暴力と危険。たとえば兵士は戦闘中、時間の進み方を遅く感じたと報告している。

 待つことや退屈さは、私たちにとってもっとも馴染み深い状況かもしれない。刑務所での独房監禁は、この分類の極端なケースだが、店の売り場にいて客が一人も現れないといった状況も同様だろう。

 LSDやメスカリン、ペヨーテなどの薬物を窃取したときに起こる意識変容も、時間の歩みを遅く感じさせるようだ。

 次に、高度な集中と瞑想は主観的な時の経過に影響すると考えられる。たとえば、多くのアスリートは、「ゾーン」に入っているとき、時間がゆっくりと進んでいると感じている。一方、瞑想の達人はそれと同等の効果を生み出すことができる。

 そして最後に、衝撃的なことや目新しいもの。人はなにか新しいことをするとき、時の流れを遅く感じる傾向がある。たとえば、難しいスキルを身につけようとするときや、日常からかけ離れた魅力的な場所で休暇を過ごそうとするときなどがこれにあたる。

 したがって、矛盾するようだが、ほとんど何も起こっていない状況でも、逆に多くのことが発生している状況でも、時間はゆっくりと進んでいると知覚される。言い換えると、状況の複雑さが、通常時よりもはるかに大きいときでも、そして反対にきわめて小さいときでも、同じように時の進む速度は遅いと認識されるのだ。

◆ある種の体験は他のそれよりも「密度」が濃い

 このパラドックスは一体どう説明できるのだろうか?

 時計やカレンダーの観点から見ると、それぞれの標準時間単位はまったく同じだ。1分間は60秒だし、1日は24時間だ。しかし、標準時間単位は、筆者が「人間の体験の密度」と称したもの、つまりそれが運ぶ客観的および主観的情報の量によって異なるのだ。

 たとえば、客観的に見て大きな出来事(戦闘など)が発生したとき、体験の密度は濃い。一方で、ほとんど何も起こっていないときも同様に、体験の密度は濃いことがあり得る(例えば独房監禁の場合など)。何故かと言えば、一見「何もない」と思われる時間が、実際には、自分やそのときの状況に対する主観的関与で満たされているからだ。そういった状況では、人は自分自身の行動や周囲の環境に注意を向け、その状況がなんてストレスに満ちているのかと考えたり、時間の流れの遅さに頭がいっぱいになってしまうことさえある。

 そういうわけで、このパラドックスは、その状況が如何に平常の状態から離れているのか、という点に依拠していることが分かる。私たちは奇異な状況にどうしても注目してしまう。それによって標準時間単位あたりの体験の密度が増幅され、結果として時間がゆっくりと進んでいるように感じてしまうのだ。

◆時は如何に加速するのか

 ゆえに標準時間単位当たりの体験の密度が非常に薄いとき、時間はあっという間に過ぎ去っていくように感じられることになる。この「時間の圧縮」は、私たちが直前のことを、あるいは遠い過去を振り返ったときに起こるもので、以下に述べる2つの汎用的条件がこれを引き起こす。

 第一の条件は、ルーチンタスク、日常的な決まりきった仕事である。人はこうした仕事を覚えるときには、これに集中することが求められるが、一旦慣れてしまえば、そのことにあまり集中しなくてもできてしまう。たとえば、いつものルートを通って車で会社から自宅に帰るなど。

 とても忙しい日があったとしよう。こみ入った仕事をこなしていたかもしれないが、長年そうしてきたので、それは型にはまったルーチンワークになっていて、多かれ少なかれ深く考えることなく行動するという点を考えると、それぞれの標準時間単位には記憶に残る体験がほとんど存在しないことになる。特異な体験の「密度」が薄いのだ。そうしてその日が終わると、時間があっと言う間に過ぎ去ったと感じることになる。やぁもうこんな時間かと驚き、すぐに家に帰れるぞと喜ぶのである。

 時間が速く進んでいると感じさせる第二の条件は、エピソード記憶の侵食だ。人は誰もがこの影響を常に受けている。日々の生活の中で起こる日常的な出来事の記憶は、時とともに薄れてゆく。先月の17日、あなたは何をしていたか覚えているだろうか。何か特別な日でなかったのなら、おそらくその日にあったことを忘れてしまっていることだろう。

 この忘却は、時を遡るにつれて強くなる。筆者が別の調査で、調査対象者に昨日、先月、昨年のそれぞれの時間の進み方をどう感じているのかを尋ねたところ、昨年は先月よりも速く、先月は昨日よりも速い、との回答を得た。客観的に言えば、そんなことはあり得ない。1年は1ヶ月の12倍、1ヶ月は1日の30倍も長いのだから。しかし、人の過去の記憶は失われてゆくので、標準時間単位当たりの体験の密度は薄くなり、時間があっという間に過ぎたと感じさせられるのだ。

◆やはり時計が時間を支配する

 しかし、筆者がいま説明した状況は普通の状況とは言えない。私たちは普通、時間が速く、あるいは遅く進むことを知覚してなどいないのだ。通常の状態では、時計で測定した10分間はやはり10分間と感じている。誰かと10分後に会うと約束したら、時計の助けを借りなくても大体時間通りに到着することができる。これは、私たちが体験を標準時間単位に変換することを学んだこと、そして逆に標準時間単位を体験に変換することを学んできたことに依っている。

 私たちがそうできるのは、日々の体験に一貫性があるからであり、この一貫性は、社会での反復的かつ予測可能なパターンによってもたらされる。たいていの場合、私たちが独房に監禁されたり、見知らぬ国を訪れることはない。標準時間単位当たりの体験の密度は中程度で、慣れ親しんだ状態である。そんな中で私たちは10分という時間の中に一般的にどの程度の体験が含まれているかを学んでいる。

 そしてこうしたルーチン的なものを変える何かのみが ― たとえば職場での特別に忙しい日や、一年前を思い起こすわずかな沈黙― 標準時間単位当たりの体験の密度を薄め、時間が瞬く間に過ぎ去っているという印象を人の記憶に残すのだ。

 同様に、私たちの心をわしづかみにする厄介な出来事である自動車事故も、各自の標準時間単位を瞬時に自分自身と状況の体験で満たし、その様子をまるでスローモーションのように記憶に残す。

Michael Flaherty, Professor of Sociology, Eckerd College
This article was originally published on The Conversation. Read the original article.

Translated by coreido

提供:ニュースフィア