森喜朗元首相を“モリキロウ”と読むのは敬称だった (2015/11/5 フリーライター 上村吉弘)
誰もが知る徳川慶喜の名前は一般に「よしのぶ」として知られていますが、多少なりとも歴史通の方は「けいき」と呼ぶのを好み、本人も好んで使っていたと言われます。伊藤博文(ひろぶみ)は「はくぶん」、原敬(たかし)は「けい」といった呼称が広く知られているところです。誰かが「その読み方間違っているよ」とうっかり言おうものなら、場に変な空気が流れてしまいます。しかも、音読みの共通理解がある人物は限られています。西郷隆盛を「りゅうせい」と読んだら「誰それ?」となります。この厄介な風習はどこから始まったのでしょうか?
名称の別読みは古くから世界各地で
漢字で書かれた語を慣例に倣い特別な読み方で読むことを有職読み(ゆうそくよみ)と言います。有職とは知識や知識人を指します。藤原定家(さだいえ)を「ていか」と読むなど、有名な歌人や文人・貴族について、知識人の間で多く用いられ仲間うちでの帰属意識を高めました。こうした中世からの慣例が、現代の有名人、特に政治家を呼ぶ際の隠語になったと考えられます。
有職読みは名前以外にも見られます。昔の官吏の考課を表す「定考」は「こうじょう」と転倒して読み、「じょうこう」とは読みません。「上皇」と同読みになるのを避けたとみられます。人に対して用いる場合、姓には使われず、下の名前である諱(いみな)に使われます。魂が宿るとされる諱を直接呼ぶことを避ける東アジアの漢字文化圏に広くみられた慣習で、避諱(ひき)と呼ばれます。また、名前に関するタブーは漢字文化圏以外にも昔から世界各地に存在したようです。中国から来たと思われる諱は、日本では「忌み名」とも記され、呼称には「字」の方を使っていました。諱を使う際には音読みにすることで避諱して、敬意を表しました。
政治家は憶えられてナンボの立場
しかし、ここで疑問が生じます。木戸孝允(たかよし)は「こういん」とも読まれるのに、西郷隆盛(たかもり)は「りゅうせい」とは読まない。その違いは何なのでしょう。明確な理由は分かりませんが、おそらく習慣に基づくものなので、影響力のある人物が使うか、声に出して読みたい語感かどうかにもよるのではないかと思われます。最後に政府に反旗を翻したかどうかも多少影響があるのかもしれません。個人的な意見ですが、西郷隆盛のイメージはどっしりとした「たかもり」であって、スマートな「りゅうせい」にそぐわない気がします。
現代の音読みは、敬意を表すと言うよりも、上記のような理由もしくは隠語や言葉遊びに近い感覚ではないかと思います。また、読み方が不明の場合にとりあえず音読みで表現しておく習慣もあるようです。人によっては「勝手に音読みにするな」と嫌う人もいるかもしれません。本名があるのに、本人の意図しないあだ名で呼ばれたら、あまり気持ちがいいものではないでしょう。しかし、上記の由来を知り、有名人に対し敬意を表して用いられたと知れば、自ら進んで音読みにしたいと心変わりするのではないでしょうか。
政治家は名前が知られてナンボの立場。読みにくい漢字は平仮名で届け出を出すくらいですから、印象が強く残る音読みを逆手にとって、積極的に使う方が親しみやすさや憶えやすさから言っても有効な戦略のように思います。
略称・カタカナ文化の席巻
戦後政治で権勢を振るった大野伴睦(ともちか)は俳号にも「ばんぼく」を用いて、通名が本名のように使われました。現代の政治家で言えば、つい最近も丸刈りになっただけで話題になった森喜朗元首相(2020年東京オリンピック・パラリンピック組織委員会会長)は「きろう」と読まれます。首相時代には、姓も音読みして「しんきろう」と揶揄(やゆ)されたこともありましたが、これは有職読みのルールに照らせば、逸脱した海賊版と言っていいでしょう。
音読みとは異なりますが、橋本龍太郎元首相はハシリュウと呼ばれました。同じ「龍」つながりで、民主党政権の時に短期間、復興相を務めた松本龍氏は被災者支援チームを「チーム・ドラゴン」と命名したこともあり、「松本ドラゴン」などと呼ばれました。呼称に略称表現やカタカナ表現が増え、命名にも「キラキラネーム」が一般化しつつある現代、有職読みのルールも今後、柔軟に変化していくのかもしれません。
- <著者>
上村 吉弘(うえむら よしひろ) フリーライター
1972年生まれ。読売新聞記者、国会議員公設秘書の経験を活かし、永田町の実態を伝えるとともに、政治への関心を高める活動を行っている。