暮らしの中の大事なものを受け継ぐ。おばあちゃんがいる田舎へ孫ターンした女性の物語 (2018/1/17 70seeds)
70seeds編集部インターンの田中です。徳島から、「ハートに火をつける」ストーリーをお届けします。今回紹介するのは、看護師として働きながら、暮らしの中の大事なものをおばあちゃんたちから学び、受け継いでいる大澤千恵美さんです。
大阪で3年看護師として働いたのち、ドイツ平和村での紛争地域の子どもたちへの治療援助活動を経て、千恵美さんが行き着いた先は、小さいころに通っていたおばあちゃんのいる徳島県 海部郡 海陽(かいよう)町。理想の暮らしとは何なのか、じっくり伺いました。
「生まれた場所に帰るのが一番自然なのかなあ」
――千恵美さんは海陽町の出身なんですよね? 戻ってくる前はどこにいたんですか?
海陽町に来たのが3年くらい前。生まれたのは海陽町やけど、育ちはずっと大阪におって。夏休みになると、海陽町のばあちゃん家にいつも遊びに来てた。
――移住したきっかけとなった経験はどこにありますか。
ドイツにあるNGO、国際平和村に行った経験が大きくて。アフガニスタンやアンゴラなど戦争や貧困を理由に傷ついた子たちが親元を離れドイツにやってきて、治療を受ける。元気になったらまた母国に帰るという支援をしている団体なんやけど。
その子たちに母国のことを教えてもらったり、一緒にアフガニスタンの料理を作ったり、挨拶を教えてもらったりして。メディアは戦争やテロのこと、危険というイメージしか報道しないけど、子ども達から話を聞いてたら、愛に溢れたすごい良い国だとしか思えなかった。
平和村での経験を通して、ふるさとで家族や友達と暮らすことがやっぱり一番幸せなんやなって。食べ物もスーパーで買うと、どこからどうやって自分までやってきたのか分からないというのはやっぱり不安だし、都会やったらお金がどう回っているかもわからん。
もしかしたら、子ども達を傷つけるお金になってるかもしれん。何が本当か分からなくて迷ってばかりいたけど、ふと自分の手で作ったものが本物で、平和なんやなあと思って。
――3年大阪に務めた後でドイツに行かれたんでしたっけ。
そう。高校生のときにJICAの人の話を聞いてから、国際協力には興味があって。看護師しながらNGOのイベントに行って、その時にドイツ平和村のことを知った。『平和村に来た子供達は未来を作るピースメーカーになる』という理念を知って「これや!」って思った。
でもぜんぜんドイツ語しゃべれんから、ドイツ語教室に通い始めた。「こんにちは」も「ありがとう」も知らん感じでいったんやけど(笑)。
――(笑)。
でも講座に参加しても全然上達しないし、ちょうど同じ時期にワーキングホリデー(ワーホリ)でドイツに行きたいという人がたまたまおったから、じゃあ私も行こうと思って。
――そのタイミングでいくことを決めたのはなぜですか?
行くなら今しかないって思って。このまま仕事を続けてても自分のやりたいことを諦めてしまうかもしれんって。一緒に行ける友達もおったし、一人じゃなかったのは大きかった。
――ドイツで海陽町に移住につながるような出来事があったということですか。
平和村の活動前にワーホリを利用して語学を学んだんやけど、その間でもたくさんの友達ができて。色んな国の、いろいろな文化を持った人がおったな。
たとえば、70才になるドイツのお母さんは、海陽町みたいな田舎で知り合って。大自然の中にポツーンと立ってるような家で暮らしていて。広い庭にはブルーベリーやいろんな果実の木があって。春になったらジャムを作ったり何でも手作りする豊かな人だった。
「オーガニックなものはスーパーでも売っているけど、やっぱり自分で作ったのが一番おいしいのよ」って素敵なお母さんで。その出会いも大きかったな。子どもたちとの出会いもかな。
――子どもたち。どんな出会いだったんですか?
いろんな子どもたちがいて、骨髄炎っていう病気や、顔や体に大火傷をおっていたり。原因はわからんけど、生まれつき排泄機能が備わっていない子もいた。はじめは服を着てるから分からないけど、処置をするときに服を脱いだら全身やけどを負っている子もいて。「なぜこんなことになるんやろう」って傷を見るのが辛かったんやけど…。
――はい…。
でも、私が助けてあげようとかではなくて。子どもたちってすごい元気で、松葉杖をついてても杖が折れるくらい喧嘩したり(笑)。私が逆に元気をもらってた。
「傷を負った可哀想な子どもたち」じゃなくて、母国から離れてドイツに来て、医療従事者や平和村のスタッフ・ボランティア・子どもたち同士…。様々な人とふれあいながら病気を乗り越えて、母国に帰って行く。子供達は「希望」なんよな。そんな子どもたちにすごく励まされてたなあ。
――そんな子どもたちを深く知りたくなった、と。
うん、子どもたちのふるさとを一度この目で見てみたくて。平和村に来てる子どもたちがタジキスタンやアフガ二スタン、アンゴラ、ウズベキスタンなどから来てたんやけど、どこか行けそうな国ないかなって。唯一行けそうやったんがウズベキスタン、ドイツにおるときに何とかドイツ語でビザをとって、一人旅に出かけたんやけど…。
――すごすぎる。
全然英語も通じへんし、ウズベキスタン語からロシア語もさっぱりなんやけど、市場とか小さい路地とかに入ると、のどかに子どもたちが遊んでたりとか、片言のウズベキスタン語で「ありがとう」って言ったらすごい喜んでくれたり。何気ない日常があって。
――そこからどうして海陽町につながったのでしょうか。
そういう日常の生活を見ていると、どこに行っても自分のできることは一緒だから、生まれた場所に帰って住むのが一番自然なのかなあって。ウズベキスタンの列車に乗りながら、横に4人くらいの家族がおって。お父さんが新聞読んでたり、お母さんが赤ちゃんにおっぱいをあげたりして。そんな何気ない普通の日常を見ていると、地元に帰ってくるんやねえ。
おばあちゃんから受け継いだお寿司
――海陽町に帰ってきてから何を始めたか教えてください。
最初はおばあちゃんとおばあちゃんの老人会の友達しかおらんかったから、とりあえず面白そうな人たちが集まる場に顔を出して、お友達になってくださいみたいな(笑)。
――おばあちゃんとは、海陽町で一緒に暮らしていたのですか?
一緒に住んではなかったけど、しょっちゅう行き来はしてたなあ。おばあちゃんの家で生活を始めたのは、おばあちゃんがグループホームに行ってからの2017年の4月かな。
昔からおばあちゃん、私が孫の中で一番下やからか分からんけど、厳しかった。だからおばあちゃんと一緒に24時間暮らすと、めっちゃケンカになると思う(笑)。
――おばあちゃんからお寿司も教えてもらったんですよね。
おじいちゃんが亡くなってから10年くらい経つんやけど、おじいちゃんが「おばあちゃんの寿司はうまいんよー」と言ってたのがすごく心に残っていて。
おばあちゃんから一番受け継ぎたいのはお寿司だと強く思ってた。今おばあちゃんはグループホームにいるから、教わる機会があまりなくなったけど…。
ことあるごとに、みんなに食べてもらって研究を重ねてます(笑)。海陽町のお祭りでは地域のおばちゃんにしごかれて、私まだまだやなって。
――しごいてくれるおばちゃんもおるんですね!
たまたまおばあちゃんの従姉妹で、叱り方もそっくり(笑)。お祭りの台所を受け継ぎたい気持ちも大きくて。神輿の担ぎ手さんの、料理をつくる賄い部隊のおばちゃん達もすごい。
私は移住した年から手伝わせてもらっとって。お寿司や山菜を使った料理とか、おばちゃんたちが作るご飯がすごく美味しくて…そういう祭りを支える女性ってかっこいいなって。
――素敵ですね…!
そのおばちゃんも80才くらいやから。あと何年できるか分からんし、あそこのお寿司は絶対に私が受け継ぎますって。これだけは強く、決めてる。
――お寿司の他に教わっていることはありますか?
赤飯の名人がおったり、鮮魚店のおっちゃんに魚のさばき方教えてもらったり。今だったらしめ縄づくりとか、田んぼもさせてもらってる。大好きになったのが蔓あみ!
家族と友達がいて、季節を感じながら生きていたい
――千恵美さんが取り組んでいる「ちえのわ」について詳しく教えて欲しいです!
「ちえのわ」のコンセプト
私のふるさと海陽町にあるばあちゃんち
年を重ね空き家になった場にまた、心地いい風を通したい。
『ちえのわ』は、そんな思いで作る、新たなコミュニテイスペース
受け継ぐべき豊かな地域文化、色んな人と繋がる 『わ』を大切にしたい
自然を感じながら生きる
美味しいごはんや音楽がある
人の笑顔がある場所に
おばあちゃんがいなくなって、空き家になったこの場所…。夏休みになるといつも遊びに来ていた賑やかだった大事な場所やから、また人の集まる場所になってほしくて。ライブしたりとか、イベントをしたりするの。ちょっとずつ人のつながりを生かしてやりたいことをやっていきたいなって感じ。
この間もライブをして。私のすごい好きな歌手の青谷明日香さん。たまたま共通の知り合いがいたのもあって、ちえのわの思いを込めて手紙を書いたら、来てくれることになって。
――どんな方だったんですか。
すっごい素敵な人だったよ。たまたま大きな台風が直撃した日やったんやけど、挨拶した途端に停電になって。電子ピアノの音が鳴らず。ほんま、なんなーんって(笑)。でもすごい良い夜やった。アカペラで歌ってくれたり、電気が復旧するよう皆で祈りながら、ろうそくを灯してご飯を食べて。結局朝まで復旧せんかったけど、朝に最後大好きな曲を歌ってくれて。めっちゃ素敵な日やった。
――これから何をしていきたいっていうのはありますか?
看護師もまだペーペーやからなあ(笑)。細く長く続けていきたいかな。今まであちこち行って、ずっと同じ場所で暮らすことをしてなかったから…。先はどうなるか分からない楽しみもあるけど、今は今を続けることをしたいな。
――最後に…千恵美さんの理想の暮らしってなんですか?
家族や友達と、季節を感じながら、心豊かに生きることかな。
◇ ◇
【編集後記】
お話の途中、ちえみさんを訪ねてきた人が。
「こんにちは~。ちえみちゃんこれもってきたったうぇ~」
「いいんですか!すいませーん!」
「これ…」
「ありがとうございます~。」
「、、、ゆずくれた(笑)なんかゆずみそ美味しいからってゆず味噌くれて、おいしいおいしいって言ってたらレシピ教えてくれて。ゆずまでくれた(笑)」
千恵美さんを訪ねてきたのは、ゆず味噌名人でした。千恵美さんは今日も、季節を感じながら、いろいろな手仕事を教わりながら、丁寧に暮らしています。
取材から、地域に残っている「大事なもの」や暮らしのことを再確認させられました。
- WRITER
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田中美有
徳島の大学生
地元の素敵な人やものを伝えたい。そんな思いで、徳島から「ハートに火をつける」ストーリーをお届けします。
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