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【前編】「誰が言うかではなく、何を言うか。チーム力が、仕事のクオリティを上げる」ジョン・カビラ (2018/11/27 マネたま

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失敗ヒーロー!

華々しい成功の裏には、失敗や挫折がある。その失敗エピソードから成功の秘訣をヒモ解く『失敗ヒーロー!』。今回ご登場いただくのはJ-WAVE(81.3FM)のナビゲーターとして30年、その創成期からご活躍されているジョン・カビラさん。現在も毎週金曜6:00~11:30放送「~JK RADIO~ TOKYO UNITED」を担当されています。安定感ある語り口からは、ナビゲーターに成るべくして成ったかと思いきや、もともとサラリーマンだったとか。まずはサラリーマン時代のキャリアからナビゲーター転身へのいきさつを語っていただきます。

DJジョン・カビラのサラリーマン時代

――大学を卒業されてから、何故CBS・ソニーに入社しようと思われたのでしょうか?

ジョン・カビラ

ジョン・カビラ
1958年11月1日、沖縄県那覇市出身。ICU(国際基督教大学)在学中にカリフォルニア大学バークレー校に留学。CBS・ソニーを経て、1988年J-WAVE開局と同時にナビゲーターに転身し、現在も金曜の「~JK RADIO~ TOKYO UNITED」を担当。以後、スポーツ番組MCや情報番組MCなど幅広く活躍中。

ジョン・カビラ:就職活動中、自動車関係の企業や放送局などを中心に受けていたのですが、先輩の話を聞くにつれ、もともと興味のあったソフト(コンテンツ)への興味が増していったんです。でも、日本では就職と言うよりも「就社」、どこに人材を置くのかの判断は会社に委ねられていますよね。放送局の面接で「外信部に行きたい、ソフト関連のことをしたい」と言ったら「それは会社が決めることなんだよ」と言われてしまいまして。それならばやりたいことができる確率の高いところをと思い、面接を受けたのがCBS・ソニーです。

――CBS・ソニーでは、具体的にどのようなお仕事をされていたのでしょうか?

ジョン・カビラ:外国部の担当になり、管理業務的なことをやっていました。レコード作成時に使うビニール盤輸入の書類作成など輸出業業務も担っていましたね。洋楽セクションの渉外業務では、プロモーション案に沿って、アメリカのコロムビアレコードと連絡を取り合いながら、写真やインタビューの手配も行っていました。グラミー賞を受賞し、飛ぶ鳥を落とす勢いだったアメリカのバンドTOTOに『夜のヒットスタジオ』へ出演してもらうという交渉を当時はテレックス(*)でやりとりしていました。だいぶ昔の話ですね。

(*編集部注:電子メール普及以前に、商業通信手段として用いられた文字による通信方式)

30歳を目の前にして、燃え尽き症候群に

――そこからどのようにしてナビゲーターに転身されたのでしょうか?

ジョン・カビラ2

ジョン・カビラ:僕がナビゲーターになれたのは、今考えても不思議です。放送研究会にも入っていないですし、オーディションも受けていない。「どうしてなれたか?」と聞かれてもうまく答えられない(笑)。「人との出逢い」としか言いようがないです。ただ、会社員になって7年目で燃え尽き症候群になり、そのきっかけが先述のTOTOだったりするわけですが、そこから物事が動き出していった感じですね。

――どうして燃え尽き症候群になってしまわれたのでしょうか?

ジョン・カビラ:例えば、常に難しいミッションが与えられて、うまくいった時の達成感ってありますよね。でも「じゃあ次はどんなことになるの?」という気持ちにもなる。「これができたなら、もっとできることもあるだろう」と周囲も自分も感じかねないんです。それを受けて立つと思うのか、困ったなと思うのか。残念ながら「僕はこれで十分やった、もう次は嫌だな」と思ったんです。28才くらいの時ですね。

――30歳を目前にすると、多くの人が悩みますよね。

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ジョン・カビラ:なんでもない平社員が大きなプロジェクトに携わることができて充実してはいました。ありがたい経験をさせてもらったという感謝しかない。でもその瞬間瞬間は、プレッシャーがとても大きく、どこまでできればいいんだろうと揺れていました。そして、「上司が今やっている仕事は、僕が20年後やっていたい仕事なのか?」とふと思ったんです。もっと早く気づければよかったのですが、実際には気づくのに5、6年掛かりました。そういったいろいろなピースが集まって「これは続けられないな」という考えに至ったんです。

――そして転職を考えられたのですね。

ジョン・カビラ:そうです。外資系やそれに準ずる仕事を目指して、ジャパンタイムズの求人広告を見たその日に、会社の先輩から第2FM開局の話を聞いたんです。「DJを探している人がカビラに『会いたい』と言っている」と。ちょうどその頃、アメリカの民放連のラジオ部会でラジオ事情をプロモートして欲しいと言われ、テキサスに行く機会があったんです。技術や内容のハードとソフト両面を3泊4日で徹底的に叩き込まれました。ヒット番組の作り方やラジオと保険ビジネスなど、「アメリカではこんなにも緻密にラジオという媒体を通してビジネスをしているのか」という学びがありました。

――いろいろなことが重なっていったのですね。

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ジョン・カビラ:偶発的ではありますが「これはひょっとして、ありなんじゃないか」と感じたんです。もともとDJ志望でもなんでもなかったのに、今考えると恥じ入るばかりです。でも「できるかもしれない」とその時思ったんですよ。それから録音番組をFMサウンズでやらせてもらい、それを聴いた広告代理店の方を経由してJ-WAVEにつながっていきました。次の仕事への道筋がなんとなくできたところで退職してJ-WAVEの仕事に臨んだんです。いやあ、リスクを取りましたよね、放送局は(笑)。

でも心配しても始まらないから飛び込むしかない。やると決めたんだから、徹底的にやる。番組コンセプトなどをプロデューサーとオープンに話し合い、ディシジョンメイキングにも関わらせてもらいたいと伝えました。音楽業界にいた身なので、音楽業界への一定の理解はあると思っていただけたのかなとは思います。

誰が言うかではなく、何を言うか。発言しやすい空気がチームワークを生む

――DJとしてだけではなく、チームの一員としても活躍されていくわけですね。

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ジョン・カビラ:番組の特性によっても違いますが、DJが制作のチームの一員になるというのは稀なことですよね。ただし、すべての番組に僕を一から入れてくださいというのは現実的ではないと思っています。いくつ体があっても足りない。ですから、お仕事の話をいただくときは「期待されていることは何か、そもそもなぜ私なのか」というところから始まります。そこに齟齬があるとみんなが不幸になります。ただ「僕の知らない僕」もいるので、それを引き出してくれる仕事というのは1番の発見と宝物ですね。

――J-WAVEのナビゲーターを30年という年月にわたって続けてこられた秘訣は何だと思われますか?

ジョン・カビラ:何か正しいことをやってきたんでしょうね(笑)。でも一番大事なのはチームワークでしょう。企画会議で大事なのは、誰が言うかではなく何を言うかなんです。昨日入ってきたアルバイトなのか、この道ウン十年のプロデューサーなのかは関係ない。キャリアがある方が心掛けないといけないのは「自分の立場のために誰かが発言しない」という空気を作らないようにすること。なんでもオープンに、ということに尽きますね。「カビラの前ではこういうことを言えないよな」という雰囲気を作らないように。

具体的には「つまんないよ」「それもうやったよ」だとか「誰に向けてやっているの?」など、頭ごなしに言わないこと。まずは聞く。即座に判断しないということですね。これはどこの世界にも通ずる話だと思います。

後編では…

サラリーマンを経て、J-WAVEのナビゲーターとなったジョン・カビラさん。後編では、ナビゲーターとしての仕事術やチームワークとしての在り方、カビラさんの考える仕事観についてさらに語っていただきます。

(後編へつづく)

取材協力:J-WAVE(81.3FM)

提供:マネたま

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