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お客さんは過去と未来 社寺建築「匠弘堂」、宮大工の矜持 (2018/9/18 70seeds

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神社仏閣>コンビニエンスストア。

この不等式、信じられますか?いま、日本にはコンビニエンスストアが約55,000店舗(2018年6月度)あるのに対し、神社仏閣数は約158,000(2017年度)と、その差はなんと約3倍。

世界最古の木造建築として知られる法隆寺をはじめ、1000年以上前から存在する神社仏閣たち。現代では人口減少や宗教離れに伴い、お寺の檀家制度の崩壊などの影響を受けている神社仏閣を、いままで誰がどうやって建てて、補修して、残してきたのでしょうか。

その疑問を解決するべく筆者が訪れたのが、京都市左京区にある社寺建築専門の工房「匠弘堂(しょうこうどう)」です。

山中を30分歩いてたどり着いた先で、かぐわしい木の香りとともに待っていたのは、代表取締役・横川総一郎さんと二代目棟梁・有馬茂さん。

数メートルもの木材が何段も積まれている中、かんなをかけるシューッシューッというリズミカルな音が聞こえるこの場所で聞いたのは、神社仏閣を支える仕事「宮大工」が直面する現実と未来についてのお話でした。

代表取締役・横川総一郎さんと二代目棟梁・有馬茂さん

棟梁の仕事=総合プロデューサー

――宮大工の方に直接お会いするのは初めてです。大工さんの中でも神社やお寺の設計もできる“特殊な職業”だという印象があります。

横川総一郎さん(以下、横川):宮大工は神社仏閣をメインに設計・施工する大工のことですからね。

有馬茂さん(以下、有馬):大工=木造建築でもないんです。木に触れる、カンナが使える、ノミが使える、昔の仕事ができる…古いイメージが先行していますが、屋根葺材や左官や錺金物・建具の知識もないと宮大工にはなれません。まして、棟梁などもってのほか。

横川:一番上に立つたつ棟梁は設計・見積もり・人員や材料の手配などをすべておこなう、映画なんかでいうところの“総合プロデューサー”の役割を担います。

――そうなんですね!建築士とはどう違うのでしょうか。

横川:建築士や設計事務所の仕事は、明治時代からの近代建築以降のもの。1000年以上の歴史で伝承されてきた伝統建築技術とは異なるものなんです。建築士の資格を持っているからといって、社寺建築の設計や修理の知識を持ち合わせているわけではないんですよ。

有馬:施工中には金額をはじめ、さまざまな条件・制約が発生してきます。それぞれの悩みに対して最高の手助けをするのが、僕ら大工の能力やと思っていますね。

匠弘堂(しょうこうどう)

――そもそも、「宮大工」の技術を持ったひとは、全国にどれくらいいるのでしょうか。

横川:実は、その数を正確に割り出すのは難しいんですよ。

京都や奈良はたくさん社寺が残ってますので、「社寺建築関連の仕事」だけでご飯を食べていくことも可能です。

しかし、宮大工として社寺建築だけで勝負するには、出張仕事は必須です。多い時は1年以上出張仕事のときもあるんですよ。しかし地方の大工さんは住宅などの工事の傍ら、お寺の仕事をする大工のほうが多いんです。

――本業として宮大工をできる人が少ない環境なんですね。どんなの技術力を持っていたら「宮大工」になれるんですか。

有馬:一人前の大工として認められるには、木を切り出すために柱の長さや刻む寸法を木材に記入し、指示する「墨付け」ができることが必要です。棟梁になるにはさらに総合的な技術と知識が求められるようになります。

代表取締役・横川総一郎さんと二代目棟梁・有馬茂さん2

波乱万丈の独立と、3人の絆

――次に、お二人が宮大工の業界に入った経緯をお聞きしたいです。

横川:実は、僕も有馬も幼い時から宮大工になりたかったわけではないんです。僕は大学で機械工学を学んでいましたし、有馬は高専で化学の勉強をしていました。

――まったく違う分野のおふたりが一緒に仕事をするまで、どんないきさつがあったのでしょうか?

有馬:横川と最初に出会ったのは22年前でした。僕は前職が石油プラントで働くサラリーマンだったのですが、「毎日成長できて、身体を動かす仕事」に就きたいと思い、転職を決断。

インターネットもない時代、京都のタウンページで見つけた社寺建築ができる15社に履歴書と返信用封筒を郵送しました。そこから一番最初に返事が来たのが、師匠(初代棟梁、故・岡本弘さん。以後師匠)のいた工務店でした。

横川:僕は、家電メーカーの冷蔵庫を設計する部署から転身して、建築設計業界に拾ってもらったのが27歳の時。そして、勤めていた設計事務所の案件として舞い込んできた社寺の新築が、宮大工の仕事に触れる最初のきっかけでした。

はじめから社寺建築がやりたいわけではなかったのですが、だんだんと社寺建築の面白さを感じていったこと、さらに師匠との出会いが決定打となり、師匠のもとで修行することを決断。宮大工の道へ進みました。

――なるほど、その時点で3人が出会ったんですね。それから、匠弘堂を立ち上げるまでは順風満帆にいったのでしょうか?

横川:3人そろったはいいものの、とても順風満帆とは言えない状況が続きました。一番辛かったのは、在籍していた工務店の突然の倒産。しかも新築現場の真っ最中でした。師匠の号令で仕事はなんとかやり遂げ、会社の後処理を師匠・有馬と3人でおこないました。宮大工の仕事をしたいのに、何をしているんだろう…。やるせなさを感じる時期が長く続いたのを覚えています。

倒産の処理を終えたあとも、不安定な時間が続きました。僕と有馬はすぐに法人を立ち上げようとしたのですが、師匠から「何もできないお前らが会社なんてまだ早い」と言われ、起業を断念。

そこから3年間、経営や経理・人事労務の勉強をしながら社寺建築の仕事をこなす日々をすごしました。3年経ち、師匠に独立したい旨をもう一度伝えると、ひとこと「ぼちぼちええやろな」と言ってもらえたんです。

社寺建築「匠弘堂」、宮大工の矜持4

――波乱万丈な時期を乗り越えての、師匠からの一言はグッと来るものがありますね。当初から、お2人で会社を立ち上げる予定はあったのでしょうか?

横川:有馬が棟梁として実務に励むかたわらで、僕が事務的な仕事を担当することで一緒に仕事できると思ったんです。設計や彫刻デザイン、見積もり、経営全般の事務仕事。伝統的な木造建築を1軒建てようと思ったら、大工仕事だけで終わるわけではないから。

もう1つ、工務店を立ち上げるからには実現したいことがありました。それは、師匠の名前を入れること。お世話になった師匠に、恩返しの気持ちを表現したいと思っていました。

師匠には苗字の「岡本」を使うなと言われていたんですけど、名前の「弘」については何も言われていないことを逆手に取って「匠弘堂」という名前を付けたんです。事後承諾でした。

社寺建築「匠弘堂」、宮大工の矜持5

いま、若い宮大工が少ない理由

――匠弘堂さんは継続的に若手の採用募集をかけていますね。

有馬:立ち上げ当時に社内で大問題だったのが、匠弘堂の高齢化問題。上は70代で、下は50代。先細りする構造になっていました。

横川:ベテラン大工の引退が近いのは自明ですし、このままではせっかく起業した匠弘堂の未来が危ない。師匠の技術が継承されず廃れていってしまう。若い子を入れて育てるのはうちだけでなく、業界の至上命題でもあるんですが。

――40代以下の宮大工さんが少ないのはなぜなんですか。

有馬:技術力に見合った賃金がもらえていない現状があるからです。社寺建築のような「伝統的木造建築」はけっして儲からない。30年前のバブル景気をきっかけに、ほとんどの大工は稼げる「プレハブ住宅」や「ビル内装」へ行ってしまったんです。その後阪神淡路大震災の復興仕事で住宅の修理が激増しましたしね。

――そんな時流が原因だったとは…。

社寺建築「匠弘堂」、宮大工の矜持3

横川:あとね、やっぱり業界が閉鎖的なんですよ。ラーメン屋のスープと同じで「この秘伝のスープは誰にも作らせない」世界。でも、それだと伝統は途切れてしまう。

大工仕事は、この時代に生きている人間が考え出したことって何ひとつないんです。1300年以上の歴史があるなかで、先人たちが試行錯誤の末、進化してたどり着いた解決方法を僕らは使わせてもらっているんです。

しかし、受け継がれてきた叡智が廃れようとしている。伝統を守るために、これからはオープンにしなきゃいけないと思っています。僕らは起業した17年前にホームページを作ったのですが、おそらく業界初なんじゃないかな。最近は外部から若い職人を集めての勉強会をするなど、オープンにすることに気を配っていますね。

――オープンにすることが、守ること。そうやってホームページで若い人の募集もされているんですね。今どれくらい若手の方がいるのですか。

横川:現在、社員が全部で12名いるのですが、20代が7人います。

――業界の平均と比べると多いのでは?

横川:でもね、すぐ辞めちゃう人が多いんです。

有馬:宮大工の仕事について責任の重大さを深く考えずに憧れだけで応募してくる人は、ついてこれなくなってしまうんですよね。

有馬茂さん

「大工仕事」の責任

――責任の重大さってどういうことなのでしょうか。

有馬:社寺には1000年前に建てられたものから新築まで、さまざまな年代のものが存在しており、当時その建物が建てられた背景には、その次代の技術といろいろな願いがあります。

修理するときには、建物をただ綺麗にするだけではなくて、当時の願いをよみがえらせることが必要になってくる。宮大工として生きていく上での絶対条件であり、私のテーマでもあります。

――それは、重いですね。

横川:宮大工の大きな使命の1つに「祈りを込めること」があると思っています。伝統建築のお客さんは「1人」ではなく、当時の人びとの願いや、未来にすむ人びとの喜びに繋がっている。
中には村や集落などコミュニティのなかでお金を工面して「やっとこれだけお金が用意できたから、このお寺直して」と依頼してくれる人たちもいます。みんなの祈りを一身に受け止めて、それを形にするのが宮大工です。

有馬:100年後、400年後の修理を見越したものを作るため、我々の「客」が誰なのか、常に向き合いながら仕事をしています。未来の職人が見たときに「なんじゃこの仕事」って笑われるような仕事をしたら絶対あかんのです。

仕上げの見える所だけ綺麗にするのは誰でもできるんですよね。その外側を取った中身がいかにビシッとできてるか。そこを理解して取り組むのが本物の「宮大工」だと思っています。

――ものすごい責任。

横川:そういうのをふまえて「できることならのれん分けさせてください」ぐらいの根性持ったやつに来てほしいと思っていますよ。気概のある若者に、師匠の技術と思いをつなげたいです。

鈴木賀子
ジュエリーメーカー、広告クリエイティブ領域の製作会社、WEBコンサルティング企業を経て、2016年より70seeds編集部。アンテナを張っているジャンルは、テクノロジー・クラフト・自転車・地域創生・アートなど、好奇心の赴くまま、飛びまわり中。
半蔵 門太郎
ビジネス・テクノロジーの領域で幅広く執筆しています。

提供:70seeds

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