全国が注目!ファシリテーター市長、挑戦の軌跡  |  政治・選挙プラットフォーム【政治山】

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
トップ    >   記事    >   全国が注目!ファシリテーター市長、挑戦の軌跡

全国が注目!ファシリテーター市長、挑戦の軌跡 (2016/5/9 Patriots)

本川祐治郎・富山県氷見市長は「政治×中間支援×民間」という3つのセクターでの経験を活かし、プロのファシリテーターとなった異色の経歴の持ち主。「つぶやきをかたちに」、「市民はまちの使い手の専門家」といった信条を掲げ、市政運営においても先鋭的な挑戦を続けています。全国から注目される本川市長、その挑戦の軌跡を追いました。

富山県氷見市長 本川祐治郎1

父の背中を見て将来の夢が芽生えた

――人生観の形成はお父様の影響が大きかったそうですね。

私は富山県の高岡市出身で、税理士の父が北陸新幹線の誘致活動に打ち込む姿を見て育ちました。新幹線は郊外の田園地帯に新駅が作られる計画でしたが、父は街の密集が損なわれないよう、商工会議所の青年部や青年会議所の仲間たちと既存の高岡駅に新幹線駅を併設するよう働きかけていたのです。

父は地域の未来に自分の時間を投資し、なおかつ生業もしっかりやって家族の時間も大切にしていました。そのような、時代に先駆けたワークライフバランスの取り方が輝いて見え、人生の価値観として心に染みついたのだと思います。

――最初は公認会計士を目指されていたとお聞きしました。

父と職業観についての話になって「将来、世界で活躍する金融マンや商社マンになるのもダイナミズムだけれど、自分が45歳を過ぎて周囲を見渡してみれば、地元にもさまざまな立場でこれからの時代を作っていこうと頑張っている仲間がいる。こういった仲間たちと酌み交わす1杯のお酒の中にも、人生のダイナミズムはあると思うよ」と言われました。私も「なるほど」と思い、「地域への社会貢献活動をしながら仕事ができるなら」と父の跡を継ぐため公認会計士の資格を取って大学を出たら地元に戻ることを決心しました。

ただ、父の言葉にはおまけの一言も付いていたんですね。「試験に受かったら1年だけでも国会議員の秘書をやったらいいと思うよ」と。つまり秘書になればものすごく人脈も広がるし、社会の仕組みがいろいろと見えて勉強になるぞ、と言うわけです。その言葉はずっと心に残っていました。

私自身も小学校のときは児童会長、中学・高校では生徒会長をずっとやってきたので、パブリックな活動をすれば多彩な世界に触れられる、ということを肌で感じてきました。一度きりの人生で多くの人と出会い、ふるさとについて語り合い、真摯な感情を分かち合う時間を持てるのは素晴らしいことです。ただ、まずは資格を取ってから、という想いが強かったので、いったんまちづくりや政治に進む道はあきらめました。

自分の道を模索し続けた20代

富山県氷見市長 本川祐治郎2

――大学生活はいかがでしたか?

入学した早稲田大学では新人勧誘期間にさまざまな分野で活躍している先輩方の講演会がありました。田中角栄元首相の秘書を務めた早坂茂三さんの講演で「自分はジェットコースターのように変動幅の大きい人生だった。が、ゆえに、満足している」というようなお話を聴いて大いに共感したのを今でも覚えています。

また、政治のサークルだけでも数十はあったので、年中、学内で政治講演会が開かれていました。私は心のどこかで「想いを遂げた方々の人生に学び、いつかは政治に関わりたい」という想いがあったので、政治講演会にはよく足を運びました。こうした分野について身近に感じられる早稲田の環境はありがたかったですね。

――大学を出た後、国会議員の秘書をされたのはどうしてですか?

目標の試験に受からないまま時間だけが過ぎていましたが、あるとき兄から、「公認会計士になるべき」とか「父の跡を継ぐべき」とか、そういった「何々すべき」といったことについては本当にそうなのか疑ってかかれ、と言われました。

高校時代にラグビー部と応援部に打ち込んだり、小学校のときから生徒会長をずっとやってきたりした私は「“歌って踊れる”公認会計士」を目指していたわけですが、兄からそれは本当に正しいコンセプトなのか? 自分の不得意を穴埋めしようとしているだけではないのか? もっとほかに自分の良さを伸ばせる道もあるのではないか? と問われたのです。

確かに高校でお世話になった先生からも、資格に限定される人生ではなく、もっと君らしさが活かせる道を目指したら?と残念そうに諭されたことがあったのを思い出しました。そういった色々な人の言葉が一つ一つ自分の中で符合していくんですね。そういうときに新聞を読んでいたら、武藤嘉文衆議員議員事務所の「秘書募集」の広告を見つけ、ご縁だと思って応募したら採用されたのです。

――そのあとは地元に戻る選択をされていますね。

秘書は天職だと思っていたのですが10か月ほど働いたところで父から「商工会議所が数年ぶりに職員を募集するので、事務局員としてまちづくりに参加してみないか」と電話がありました。

悩みましたが、秘書の大先輩の「本当に地域の役に立ちたいなら帰ったほうがいい」という勧めや、父のように地元で若いころの仲間と生涯、地域の未来を語り、考動していく人生に強い憧れと魅力を感じていたので田舎に戻ることにしたのです。

まちづくりに関わる立場から市長としての挑戦へ

富山県氷見市長 本川祐治郎3

――商工会議所勤務時代はどのように過ごされていましたか?

商工会議所では中心市街地の活性化や伝統的建造物群の保存地区活用事業、商店街連盟事務局などを担当し、いずれも大変やりがいのある仕事をさせていただきました。仕事を通じて数えきれない出会いとまちづくりの現場経験に恵まれたと思います。

一方でもっと交友関係を広げようと高岡市青年議会(現・高岡ニューリーダーアカデミー)や富山県の青年議会に参加しました。青年議会は、地元新聞社の協力を受けて次代を担う若者に政治について学び、政策提言の機会を与える場として開催されていたものです。

青年議員は自由に市や県の担当者にヒアリングや調査ができるし、本議会で質問や提案をぶつける機会もありました。私自身も高岡市青年議会の総務委員長や富山県青年議会の議長を経験させていただき、仕事をしながらも地方政治の仕組みを学ぶことができました。

――その後はファシリテーターとしての道を歩まれていますね。

商工会議所で4年勤務した後は、妻の実家である味噌・醤油づくりの会社経営に携わり、氷見での商店街活動をスタートさせました。今度は“プレーヤー”としてまちづくりに関わることなり、商工会議所や青年会議所でリーダーシップトレーニングを重ねました。

一方で「自分の専門って何だろう?」と考えたとき、それまで一番、多く時間を費やしてきたものは、さまざまなまちづくりの課題に取り組む、いわば“大人の生徒会活動”的な経験だと思いました。商工会議所職員という仕事柄、さまざまな会議に出ましたが、金融や経済の専門家はいても会議進行を取り仕切る専門家はいません。

そこで、もっと生産性の高い話し合いにするため、「会議を科学」して最高の議事進行ができるプロになることを決めたのです。それが職業としての「ファシリテーター」への道につながり、「とやま起業未来塾」を経て会社を設立する流れになりました。

――市長に立候補されたのはどうしてですか?

どうやったら政治家になれるのか、というのはずっと考えていて、働きながらも松下政経塾の合宿に参加しましたし、日本政策学校など政治塾の通信科も受講していました。

そのうち青年議会の仲間や松下政経塾の合宿で知り合った人たちの中で立候補して選挙にチャレンジする者が出てきました。よく観察すると、時代の流れで国際企業の出身者や文学者、哲学者、お笑い芸人などさまざまなジャンルの人が首長になっています。そう考えれば、そのまち、その時代の要請によって、ファシリテーターという専門家も近い将来、政治家として力を尽くせるときが来るのではないか?と思うようになりました。

ちょうどそのとき、氷見市では市庁舎を移転するという重大な決定事項があまり情報公開されずに決まろうとしていました。市庁舎が移転して都市構造が変わる、というのは、北陸新幹線の新駅開設で街の中心核を2つ持つことになった高岡市と似ています。それで自分なら各地の市民運動を20年以上見てきた経験と、ファシリテーターとしてのスキルを活かして、氷見市のまちづくりにおける将来課題を解決できると感じ市長に立候補したのです。

富山県氷見市長 本川祐治郎4

――さまざまな仕事を経験して市長に就かれたご自身の人生を振り返ってどうですか?

大事なのはどのようなときでも「志を忘れない」ということです。もし心の中にかすかな志があるなら、その種火を消さないようにしなければいけません。かすかな手がかりでも得られればと、少しずつでも勤めながら政治塾の通信科を受講したり、市議会議員の政経セミナーに青年議員として混じって受講したり、さまざまな海外事情にも触れて見識を深めてきました。

「幸福は準備された心に訪れる」という言葉がありますが、世に役立ちたいという明るい希望を持った仲間が集う環境に身を置き続けることが、学びを蓄え、運を引き寄せ、力を与えてくれたのだと思います。

――普段の市政運営で心がけていることはどのようなことでしょうか。

結果を出すことにこだわって、民間企業と同じような感覚で実践経営をしようとチャレンジを続けています。私は醤油屋を経営した経験などから1円、10円のお金の重さを知っていますし、青年会議所でも経費の使い方については徹底的にトレーニングされてきました。市役所はいわば“幸せ創造商社”ですから、経費をどう「市民の幸せ」につなげていくか、というところをこだわりながら話し合い、“幸せ投資”を判断しています。

さらにファシリテーションやコーチングのスキルを活かせば、市民の感情やマーケティングを分析・分類し、それぞれのターゲットに合ったやり方やツールを駆使できます。これからも「ハードからソフト、ソフトからハートへの地域づくり.」という言葉通り、市民の感情をしっかりお伺いして、皆さまの想いを共有することを大事にしていきたいと思っています。

――これから政治家を目指す人のメッセージをお願いします。

いつも申しあげることですが、政治家は4年1区切りのワールドカップサッカーの監督のようなもの。それまでの自分の経験や学びが、その時代の組織や社会に貢献できる、エンパワーメントできる、と信じて臨めば良いと思います。ですから各自治体の運営スタイルもさまざま。「地方創生」の壮大な社会実験を経て、将来の政治家像は様変わりするでしょう。

選挙権の年齢が18歳に引き下げられた今は時代の変わり目です。自分自身の人生を振り返ってみても10代のころに受けた影響が大きく、そのときの立志が今の自分を作り出していると言っても過言ではありません。この機会を活かして、次代の日本を創る若者が当たり前のように選挙や政治に関心を持つ民主主義の先進国家・日本になってほしいと願います。

富山県氷見市長 本川祐治郎5

文:吉岡名保恵

提供:Patriots

プロフィール
本川祐治郎(ほんがわ・ゆうじろう)
1967年、富山県生まれ。早稲田大学商学部卒業。衆議員議員・武藤嘉文事務所で秘書を務めた後に帰郷。高岡商工会議所で地域振興事業に関わる中で、協働コーディネート・ファシリテーションの必要性に目覚め、専門を磨く。2000年からは家業の経営に従事。その後、「政治・中間支援・民間」の3つのセクターでの経験を活かし経営士登録。プロファシリテーターとして起業し、地域・企業のコンサルティングを行う。2013年4月、富山県氷見市長選に無所属で出馬し当選。「つぶやきをかたちに」を信条に市政運営にあたっている。日本政策学校一期生。
関連記事
話しやすい空間での「対話」が未来を創造する~富山県氷見市の「フューチャーセンター庁舎」への挑戦~
政策とは結果を出すことが重要であるから、現場で勘所を掴みながら政策を洗練させることが必要である
突撃!なるみんがゆく(5)本川祐治郎 氷見市長
「政治は多様であるべき」最年少現職知事である鈴木英敬氏の政治に対する想い
メディアへの不信感から芽生えたコミュニケーションの大切さ―元NHKアナウンサーが取り組む「パブリック・アクセス」の可能性